創世記(聖書)の歴史がなぜ正しいと言えるのか ―科学の限界を知る

創世記(聖書)の歴史がなぜ正しいと言えるのか ―科学の限界を知る

歴史科学~科学者が過去を
扱うことの限界

歴史科学では、過去の絶対的な証明が難しい。

まず、科学の中には作法の異なる分野―「実験科学」と「観察科学(歴史科学)」があることを理解する必要がある。

実験科学:この分野は、実験を研究の主要な方法とする科学であり、推論を立てて、それを検証するために実験をし、それを繰り返すプロセスを踏んでいく。この方法では、推論と結論が実験で結びつき、憶測が入る余地が無い。人間が飛行機を飛ばしたり、携帯を使ったりすることができるのは、この実験科学による恩恵なのだ。

観察科学(歴史科学):この分野は、考古学や地質学などを含む、過去の歴史を扱う科学だが、実験科学と大きく異なる点は、再現する実験ができない、という大きな制約があることだ。つまり、宇宙の始まりや、最初の生命の誕生、進化の様子などは再現できないし、鉱物を何万年もかけて作るわけにもいかないので、必然的に、不確かな前提の上に、推論を積み上げていくことになる。

このように、科学が過去の歴史を証明しようとする場合、大きな制約に伴う限界があるということを、まず理解しておく必要がある。

進化・創造の双方の科学理論は
常に変化する可能性を持つ

歴史科学に限界があることから、進化論、創造論のどちらにおいても、新たな証拠や技術の発見によって、常に理論が変化する可能性を持っている。

では、宇宙や人類の起源を正確に知る唯一の方法とは何だろうか?その点について、AIG(アンサーズ・イン・ジェネシス)の代表である科学者、ケン・ハム氏は、このように述べている。

「万物の起源や、過去に起こった出来事(特に古代世界)について正しい結論に至る唯一の方法は、知るべきことを全て知っているかどうかにかかっています。もしすべての証拠が得られないなら、その人の出すどんな結論も正しいとは言えません。それ以外の証拠が発見されて、全く異なる結論に導かれるかもしれないからです。また、証拠を全て集めたかどうかさえ、その人にはわからないのです。『何事においても100%の確信に至ることができない』これが私たち人間のジレンマです。」

つまり、知るべき全てのことを知っている証人で無ければ、遠い過去の歴史を絶対的に証明することは難しい、ということだ。

創造論の確かな根拠―
創造の神の言葉「聖書」

人間には、遠い昔に起こった出来事について、知るべき全てのことを知る方法はない。しかし、自ら天地を造り、創造の現場に立ち会った神であれば、その全てを知っているはずだ。だから、人間にはわからなくても、創造者の啓示を受けた書である「聖書」には、万物の起源に関する確かな答えがある、これが創造論者の論理だ。

聖書の言葉は、創世記の歴史が
史実であったことを明言している

イエス・キリストは、聖書の中で、旧約聖書全体が、誤り無き神の言葉であることを、次のような言葉で断言した。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18

また、イエスの使徒であるペテロやパウロも、口を揃えて、聖書の霊感性と信頼性を証言している。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16

「それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第二ペテロ1:20-21

創造論者、またクリスチャンが信じているように、もしも聖書が本当に神の言葉であれば、創造の現場に立ち会った唯一の神の証言として、絶対的な信頼を置く根拠となるだろう。

なぜ聖書が創造者の言葉だと
わかるのか?

キリストの復活―命を創造した神の力の証明

イエス・キリストが肉体的に復活したことは、人証(目撃者による証言)と物証(歴史的資料)によって、反駁の余地の無いほど明らかになっている。その点についての詳しい解説は、以下をお読みすることをお勧めする。

神の存在は証明できるのか~科学と証拠の関係
イエス・キリストは本当に復活したのか

一度完全に死んだ人間が自然に復活することはあり得ない。したがって、キリストの復活の奇跡は、命の創造者である神の実在と、その神の超自然の力が神の子キリストに働いたことを明らかにするものだった。

旧約聖書のメシア預言の成就

聖書は預言の書とも言われており、過去の歴史において成就した預言の数々は、聖書の言葉が、確かに全能の神の霊感を受けたものであることを強力に論証している。なぜなら、絶対的な全能の神でなければ、預言を通して語った数々の約束を、100%果たすことは不可能だからだ。(もしも絶対者でなければ、約束を果たせない不確実性を持つことになってしまう)

聖書の預言の中でも、特に重要な預言が、人類救済に関わる「救い主の到来」に関するものであり、専門的には「メシア預言」とも言われる。メシアの初臨に関する100以上もの預言は、紀元一世紀のイエス・キリストに、全て成就した。そして、初臨のメシア預言における最高潮が、キリストの十字架~復活の奇跡だったのだ。

つまり、キリストの十字架~復活の出来事は、神の実在を示す奇跡というだけでなく、預言の成就という観点から見ても、神の絶対性・全能性に基づく約束の確かさを証明するものだったのだ。

メシア預言の成就については、以下の記事をお勧めする。

イエスは預言されていた救い主(メシア)なのか?(前編)
イエスは預言されていた救い主(メシア)なのか?(後編)

以上の理由から、聖書全体は全能の神の霊感を受けた啓示の書であり、万物の起源に関して、創造主による直接の証言が記されていると結論できるのだ。

まとめ

進化論と創造論の論争は、科学VS宗教ではなく、宗教VS宗教だと言える。なぜなら、双方の立場を隔てているものとは、歴史科学の理論を組み立てる前の「前提」(土台)であり、その前提とは、どちらの場合においても「信仰」だからだ。

多くの進化論者にとっての前提となる信仰とは、「命の起源は、自然の過程で説明すべきものであり、そこには創造者は関与せず、必要とされない」というものだ。しかし、超越的な創造主が存在しないことを証明する方法を、人間は持ち合わせてはいない

一方、創造論者が歴史科学の前提として据える信仰は、「はじめに神は天と地を創造された」(創世記1:1)というものだ。創造主なる神の存在は人間の理解を越えているが、神が自ら啓示によって、聖書を通して、神の子イエスを通して、人間の歴史に介入し、人間に語りかけてくれた。だからこそ、その神の言葉に基づき、創造の起源に関して、確かな前提を据えることができるのだ。

進化論と、創造論、あなたはどちらの「信仰」を選択するだろうか?

「1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。 2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブライ11:1-3)

※なお、イエスが確かに復活し、今も生きていることは、現代に生きる世界中の人々による目撃証言からも確証できる。 >> イエスの出現

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