神による大量殺人―「従わない者を殺す神」は本当に正しいのか?


ヨシュアによるカナン征服―アモリ人に勝利するイスラエル

ヨシュアによるカナン征服―アモリ人に勝利するイスラエル

今回の質問

聖書では、神の裁きによってたくさんの人々が命を落としている。神の望みにそぐわないものは殺し、神に従順なものを救う、ということだ。果たして、従わない人は皆殺す神は、本当に正しいのだろうか?

誰が善悪の基準を決めるべきなのか?

「従わない者は殺す」このような神の対応に、不満を感じる日本人は決して少なくはないが、その不満には、ある前提となる考えが存在する。それは「神と人間の関係性」に関するものであり、そのような不満は多くの場合、神の立場と自分の立場を対等に見ていることに原因がある。

聖書が繰り返し語りかけていることは、「神は万物の創造者・支配者である」という事実である。もし神が本当に万物の創造者ならば、神が造らなければ人間ははじめから存在すらしていない。さらに、人間の命を含む、万物の所有権は、完全に神の側にある、ということになる。

私たちの社会では、所有権を持つ者は、その所有物に関連する権利を持っている。だから、アパートの大家は、その家の規約を決定する権利を持っており、もしそのルールに従わない住人がいれば、適切な警告を与えた上で、そこの住人を追い出すことができる。

この時、住人を追い出した大家に対して、文句を言う人間は誰もいない。なぜなら、私たちは、「大家と住人の関係性」を理解しており、彼らの立場が対等でないことを知っているからだ。

しかし、これと同じようなことが、万物の所有者である神と、その住人である人間との間に生じると、人間が不平を言うのはなぜだろうか?それは、住人である人間が、大家である神との根本的な関係性を理解していないからだ。

神は所有権を持つ大家・万物の支配者であるために、善悪の基準を決定し、人間を裁く権威を持っている、これが聖書の教えているところである。

聖書の神の属性と目的―愛と義

神に倫理基準を定める権利があるからといって、神が人間を乱暴に扱うわけではない。むしろ神は、どんな人間よりも、自身の属性にしたがって、完全に公平な裁きを与える存在である。

聖書で啓示されている神の属性は、「聖なる神」「義なる神」「愛ある神」であり、全ての物事は、この神の属性に基いて、忠実に実行されていく。

たとえば、神が義であるということは、正しく生きる人々には必ず祝福を与え、悪いことを続ける者には必ず罰を与えることを表している。私たちは、このような神に対して、不満を抱くどころか、むしろ社会で完全に公平な裁きが行われることを切望しているのではないだろうか?

また、神は愛であり、どんな人間よりも、私たちのことを深く愛している。その愛ゆえに、神は多くの場合、悪を行う者たちにすぐに裁きを下すのではなく、悔い改める時間をしっかりと与える。また愛ゆえに、全ての人の罪の身代わりとして、独り子であるイエスを与えた。

裁きの事件の背景

聖書に記されている神の裁きが批判されるもう一つの原因としては、誤解が挙げられる。つまり、出来事の背景が十分に読み取られていないのだ。そこで今回は、際立った二つの裁きを取り挙げてみる。

ノアの大洪水

聖書に記されている裁きの中で、最も大規模なものは、「ノアの日の大洪水」である。聖書の記録によれば、当時は「ネフィリム」と呼ばれる人間と堕天使の混血種がおり、彼らの影響も悪く働き、地上は暴虐で満ちるようになった。

そして、その悪のレベルが、「回帰不能点」を越えたため、神はやむを得ず、全地球規模的な裁きを下すことを決定した。

しかし、聖書の記録によれば、ノアが方舟の建設を命じられてから、大洪水が生じるまでは、120年間もの期間があった。その間に、人々には、ノアの警告に心を留めて悔い改める時間が十分に残されていたのだった。

しかし、改心した人は誰もおらず、方舟に入ったのは、ノアとその家族の八人だけだった。それほどまでに当時の世は、神に対して反抗的だったのである。もし神が大洪水を起こさなかったら、地上から正しい人は、一人も残されなくなっただろう。

各事件の背景~ヨシュアによるカナン征服

カナン人に対する征服戦争の背景は、唯一の神ヤハウェが、カナン人の罪を裁くために、イスラエル人を用いた宗教的なものである。

当時のパレスチナの地域に住んでいたカナン人は、偶像礼拝に端を発した不道徳と性的堕落で極めて堕落していた。例えば、彼らが行っていた礼拝には、性的な行為や、殺した子供を生け贄として捧げる人身供犠のような悪魔的な儀式も含まれていた。

聖書の歴史と一般の歴史の双方は、彼らが不道徳や堕落のとりわけ卑劣な記録を作り上げてきたことを、一貫して証言している。

それでも神は、すぐには彼らを罰せず、400年もの長い間、彼らに時間を与えた。しかし、最終的に、彼らの罪が極みに達し、回帰不能点を越えたので、イスラエル人を用いて裁きを与えたのだった。

結論

聖書の神は、万物の創造者であるため、倫理基準に関する絶対的な決定権を持っている。そして、その基準は、聖・義・愛という神の属性に基づくものであり、神は常に完全に正しい方法で、その権威を行使される。

旧約聖書に記されている大規模な裁きの多くについて、神の残虐性が批判されていることがあるが、それらは大抵、背景事情を十分に理解していない人々がもたらす誤解である。

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36件のフィードバック

  1. 鈴木 志 より:

    今日は、鈴木です。最近ネフィリムの事について調べていなしたら、多くのクリスチャン(まともな)の情報サイトにて、間違った理解がされているように感じました。それは、
    ネフィリムが堕落した天使と人間の女性の間に生まれた混血種である、と言う事です。

    創世記6:4「神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を択んで、自分たちの妻とした。」

    この「神の子ら」を、どのように捉えるのかがポイントになるのだと思います。
     
    ヨブ1:6、38:7には御使いが「神の子ら、神の子たち」と書かれています。
     同じように
    ホセア1:10にはイスラエルに対して「あなたがたはいける神の子らだ。」
    詩篇82:6イスラエルに対して「お前たちは神々だ、いと高き方のこらだ。」
    ヨハネ10:34上記のイエスの引証。
    マタイ5:9平和をつくるものに対して「神の子ども」
    ヨハネ1:12イエスを信じ受け入れた人に「神の子ども」と記されています。

    この様に、確かに天使に対しても「神の子たち」と書かれていますが、人間に対してもその様に書かれています。イスラエルが「あなたがたは神だ、あるいは神の子だ」と記されているのは、神の律法を預かったものとして、それを持っているが故に「まるで神の様な者」として、律法を持たないほかの人々と区別するためにそう呼ばれたと判断できます。同じように主イエスを信じたクリスチャンも、神のものとして、他の者と区別されているが故にそう呼ばれていると言えます。
    マタイ22:30「復活の時には、人はめとる事も、嫁ぐこともない、天の御使い達のようです。」と記されている通り、天使は結婚しません。御使いの名は男性名詞で書かれているから男性だ、との主張もあるかもしれませんが、神についても「父なる神」と表現されていますので、それが必ずしも性別を現してはいないといえると思います。

     結論としては、創世記6:2に書いてある「神の子ら」は、アダムから信仰を受け継いだ「セツ系の子孫」の事として、他の信仰を受け継がなかった者たちと「区別して書かれた」、という理解をするのが適切と思います。イスラエルの民もまことの神を敬わない異邦人との結婚を禁じられていましたが、サマリヤの人たちは混血の民となり、その純粋さと、区別が曖昧になってしましました。
     「神は差別は決してしませんが、区別をされる方」。混乱して行く様を悲しみながら見ている様子を描いていると思います。

    失礼を承知で書きましたが、もう一度聖書から吟味して頂けないでしょうか。
    よろしくお願いいたします。

    • true-ark より:

      コメントありがとうございます。まず、創世記6:4の「神の子ら」を、人間であると結論づける上での論法に見落としている点があると思いました。
      「神の子ら」の旧約聖書中の用法として、(1)天使に用いられている事例、(2)人間に用いられている事例、の2パターンを上げていますが、創世記6章が、(2)を表しているとする根拠が十分ではないと思います。拝見させていただいた論法を踏まえると、結論は、「どちらの可能性もある」という風になると思います。

      ホセア1:10は、その時点でのイスラエルに対してではなく、将来のイスラエルの状態のことを述べています。
      詩篇82:6は、不従順なイスラエルの指導者に対する、神様からの皮肉、という文脈で語られています。
      新約聖書では、神の子供、という表現は、一貫してクリスチャンに対してです

      なので、旧約聖書において、その時点の対象として語られる「神の子ら」は、天使である可能性が高いと思います。

      また、重要な点ですが、創世記6章の「神の子ら」と、人間の女性と交わった後、「ネフィリム」と呼ばれる特殊な人種が現れ、その人種は巨人・超人だった、ということです。もしも人間同士で生まれる子供だったのであれば、なぜ聖書は、わざわざ異なる人種とし描いたのでしょうか?なぜ、ネフィリムだけが、巨人・超人となりえたのでしょうか?明らかに、彼らは、普通の人間とは区別して描かれるべき人種だった、ということです。

      また、セツの家系は、神に忠実な人々であり、その流れからエノクやノアが誕生しています。なので、セツの子孫が結婚してネフィリムが誕生する、というのも不自然ですし、セツの子孫が人間の女性と結婚するのは普通のことですので、わざわざ聖書に記録する必要性の無くなります。

      ペテロは、ノアの時代の罪を犯した天使たち、を特殊なカテゴリーに分けて表現しています。

      最後に、ユダヤ人の歴史家ヨセフスの記録や、エノク書には、はっきりと堕天使が人間と雑婚したことが描かれていたと思います。エノク書は正典ではありませんが、当時のユダヤ人に親しまれていた書物ではあり、ユダ書にはエノク書からの引用も見られます。

      どうぞ、ご参考になさっていただければ幸いです。

      • 鈴木 志 より:

        今日は。早速の丁寧な返答、有難うございます。この事を通して考える幅が広まりました。

        返信をもう一度慎重に検討してみましたが、やはりその説明から「神の子ら」を天使と判断するのには大きな欠点が有ると感じます。

         それはマタイ22:30において、主イエスが御使いについて、「めとる事も、嫁ぐこともない」と明確に言われていることが、全く反映されていない事が最大の原因です。これは明白なことであり、議論の余地のない決定的事項なので、もし聖書を第一として判断しようとするならば決して漏らす事が出来ない事です。このイエス様の証だけで、天使説は無くなります。これに優先する事を聖書以外に見つけることは出来ませんし、これ以外の決定的な論拠は有りません。このイエス様の証を、何か限定的なものとしたり、そこに何かの推測を付け加えてしまいますと混乱を招きます。「聖書は何と言っていますか」によって判断する事が原則です。

        以降、このイエスの証を基いとして推察と考察をしたいと思います。

        1 御使い説が無くなった以上、必然的に人間と考えられる。宇宙人説は論外とします。

        2「神の子ら」=セツ系の子孫説。セツはアダムから信仰を受け継ぎましたし、その子孫にもその傾向が見られます。しかし何時でもそうなのですが、堕落はすぐに始まりました。ノアの洪水の後もそうでしたし、ダビデ王の後、その子ソロモンから既に堕落は始まりました。サムエルは素晴らしい信仰をもっていましたが、その子供たちはその信仰を受け継ぎませんでした。私たちクリスチャンも2世、3世と信仰が受け継がれていくのは、なかなか難しいと感じます。同じように、セツの子孫にも信仰を受け継いだ者と受け継がなかった者がいた事は容易に想像できます。それ故、創6:2の「神の子ら」は、本来セツから信仰を受け継ぐべきものとしてとり分けられたはずのセツ系の子孫「神の子ら」が堕落し、その「神の子ら」と区別されるものとして、カインと同じ様に信仰に対して無関心な人たちのグループを「人の」娘と表現していると推察する。

        3 創6:2の「神の子ら」を天使と考えた場合、非常に難しい問題が生じます。
        *天使は天的な存在であって、地上に住み、死を経験する人間とは区別されている。
        *天使が生殖機能を有するという聖書的な根拠はない。そもそも「産めよ増えよ」と言う存在として書かれてはいない。
        *天使は一時的に人間の姿で現れることは有ったが、人の形を持って常態的に地上に住んだという記録は聖書にない。悪霊として人や動物にとりついた形で存在する事はあった。
        *天使と人間は本質的に異なった存在なので、その結婚というものを神が許されるとは考え難い。子供が誕生する事そのものが不可能と判断される。区別を愛する神が、人間と天使のハイブリットという半人間、半天使の様な存在を許すことは考えられない。
        *「神の子」を天使とした場合、今日でもその雑婚が起こる可能性がある事になる。
        *「神の子ら」が天使を示しているヨブ記1:6,2:1、特に38:7は間違いなく堕落していない天使の事であり、堕落した天使を「神の子ら」と表現するには無理があると思います。それは主イエスが、ヨハネ8:44で罪を認めず、悔い改めようとしない律法学者やパリサイびとたちに対して、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出たものであって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。」、同じように、マタイ23:33「お前たち蛇ども、マムシのすえども」と厳しく糾弾しています。それ故その者たちは神の同胞ではなく、悪魔の同胞です。それ故、堕落した天使も神の同胞ではなく悪魔の同胞であり、悪魔が父なので、「神の子ら」という表現は許されないと考えます。ヨブ1:6や2:1では悪魔はサタンと書かれており、「神の子らの長」や「御使いの頭」などとは書かれていませんので、そこに書いてある「神の子ら」がすでに堕落した天使の事ならば、「神の子ら」ではなく「悪魔の子ら、サタンの子ら」となるでしょう。
        *創6:4の時点では未だ、罪を犯していない時の天使についての事なので「神の子ら」と表現されているとの考え方も、マタイ22:30によって排除されます。

        4 ネフィリムも化石はかなり発見されているようで、捏造でなければ5~10mくらいの身長の者も居た事になります。現在からは考え難いですが、その時と今の地球環境の違いも有り、生物が巨大化する事が比較的容易であった時代ですから、ネフィリム以外の人間も、ネフィリム程では無いですが、現在の人間よりも大きい人も居たかもしれません。
        ネフィリムだけが何故特別な人種として書かれたのかは、はっきり言って良くわかりませんが、犬にしてもチワワからセントバーナードのように大きさは大きく異なりますし、人という種の中のひとつとして許容の範囲と考えます。また後の時代の人たちが、ネフィリムの化石を見た時の為の説明であるのかもしれません。

        5 エノク書を引用されていますが、聖書に確かに書いてある事の補助的な物として引用するのは良いのですが、はっきり分かっていない事を聖書以外で方向づけをしたり、確定的にするのは良くありません。聖書にはっきり書いてある事が優先します。ユダ書にエノク書からの引証があるとの事ですが、確かにイエス様も諺を用いることが有りました、けれどもそれだからと言ってそれら諺の全て、エノク書の全てが正しいとは言えません。天使についてはユダヤ人の中に、ヨハネ5:1~9の脚注に有るような間違った認識の言い伝えも有りました。この脚注にあるような御業を主がされることは決して有りません。そこにある世界は弱肉強食の世界であり、神の倫理観とは遠くかけ離れているからです。
         
        6 Ⅱペテロ2:4~については、4節、5節、6節は似たような事をまとめて書いていますが、それぞれが別の事がらを取り扱っていると考えます。新解約や口語訳、詳訳聖書では5,6節の頭に「また」と訳され、「さらに」とも訳すことが可能ですが、私は前者ととります。知っておられると思いますが、4節で完了形で書かれていますが、ヘブル語では「未来完了形」が有るので、ここでも同じような考え方で書いてあると考えて良いと思います。現在は悪魔も悪霊(悪魔と共に堕落した天使たち)も活動する事が許されています。以上の事から、4節の御使いが罪を犯した時については、天使長ルシェファーが自分の配下の御使いを引き連れて神に背いた時と判断します。

        以上、マタイ22:30を唯一確定的なものとして信じ、それを基いとして推察と考察をしてみました。この事からやはり私は「神の子ら=セツ系の子孫」と判断します。もし宜しければもう一度この文章を吟味し、再考して頂けないでしょうか。この件につきましては私の方からはここまでにしたいと思います。有難うございました。

        • true-ark より:

          「それはマタイ22:30において、主イエスが御使いについて、「めとる事も、嫁ぐこともない」と明確に言われていることが、全く反映されていない事が最大の原因です。これは明白なことであり、議論の余地のない決定的事項なので、もし聖書を第一として判断しようとするならば決して漏らす事が出来ない事です。」

          この点についてですが、見落とされている点があります。この言葉は、天使には生殖能力が無い、という解釈と、結婚するということは、天使の聖なる属性と合わない、という両方の解釈があります。そもそも、聖書を神の言葉と信じるユダヤ人たちが、伝統的に、「神の子ら」を天使と理解していた、という事実そのものが、後者の可能性があり得ることを示しています。

          なので、全体として、鈴木様の議論の進め方の前提は、聖書のある特定の解釈や推論を絶対化した上で、話を進めておられる印象がございます。例えば、

          *天使が生殖機能を有するという聖書的な根拠はない。そもそも「産めよ増えよ」と言う存在として書かれてはいない。

          >逆に、生殖機能を持てない、とする確固たる聖書的根拠もありません。ただ、地上に現れる天使が、飲食など、通常の人間の活動ができることはわかります。

          **天使は一時的に人間の姿で現れることは有ったが、人の形を持って常態的に地上に住んだという記録は聖書にない。

          >「神の子」らが、天使であれば、それがその記録となります。

          *天使と人間は本質的に異なった存在なので、その結婚というものを神が許されるとは考え難い。子供が誕生する事そのものが不可能と判断される。区別を愛する神が、人間と天使のハイブリットという半人間、半天使の様な存在を許すことは考えられない。

          >これも推論の域を出ません。神の基準から、許されざる行為だったので、特別な処置が取られた、とも理解できます。あくまで天使も自由意志を持つ存在なので、

          *「神の子」を天使とした場合、今日でもその雑婚が起こる可能性がある事になる。

          創世記6章の冒頭を良く読むと、その後の時代にもネフィリムがいた、と書かれています。ただし、明らかに、当時のような範囲で雑婚が起こることは神は許されていないでしょう。

          なお、神の子ら、が天使だったかどうか、そのテーマに多くのエネルギーを用いる必要はあまり無いと思います。福音との関係性が薄いテーマだからです。

  2. ムッコラ より:

    人間の歴史の観点から言うと、旧約聖書に書かれている
    神が介在する基準が見えてきます。
    そのガイドラインというべきもので見るのなら
    現代にいたるまでに何回かは介入していると思います。
    神が介入している事例はあるのでしょうか?

    • true-ark より:

      ムッコラ様
      ご返信遅くなり大変申し訳ございません。神が介入している事例は、記事の中で紹介している通りでありますが、他にもたくさんの介入事例が、旧約聖書中に見出されます。例えば、イスラエルの存在自体が、神が歴史に介入している決定的な事例です。

  3. 松田美喜子 より:

    神の考えは 人間より高い。故に理性で考えてはいけないと言われました。でも理性を与えたのも神であれば人間が聖書に対し色々疑問を持つことは自然だと思うのです。
    私達 人間は神の創造物だから神の思い通りになると言うことに抵抗を感じます。

    誰一人として自分から望んでこの世に生まれるわけではありません。英語の直訳は生まれさせられたと言う意味になるそうです。

    自分の意志で生まれてきたわけでもないのに神に背いたからと言って殺されるのであればヨブやソロモンではないですがこの世に生まれて来なければよかったとなります。

    黙示録には、命の書に救われる人は、初めから記されているとあります。
    ならば命の書に書かれていない人間は、初めから滅ぼされることがわかっていると言うことですよね。

    天使が神に背く事も 人間が神を裏切る事も分かっていてどうして創造されたのか理解できません。

    イエスの十字架はユダの裏切りがなければ成り立たないのにユダは“滅びの子”と言われてイエスからは「生まれてこない方が良かった」と言われています。自分の罪を反省して首吊って死にましたが悔い改めなかった為 永遠の地獄に落とされたと聞きました。私はある意味ユダは、キリスト教を成立させるための重要人物でありその為の犠牲者に思えます。
    このように聖書には、釈然としないところが多々あり信仰の妨げになっています。

    私は クリスチャンですが不信仰故に天国に行けるとは思えません。この世に生まれてこなければ“無”ですからその方が良かったと考えてしまいます。

    • true-ark より:

      聖書の教えの中には、私たちの理性で、理解しきることの可能な部分と、そうでない部分があると思います。
      今回、松田様が感じておられる疑問については、まさに人間の理性において、十分に理解することが難しい部分です。

      私の場合、そのような理解が難しい部分については、やがて天に行き、真理の全貌を理解した時に、納得できる形で、十分に理解できるようになる、という確信があります。
      なぜなら、真理の全貌を知る全ての天使たちは、それを知った上で、神を褒め称えているからです。
      そして、真理を完全に知っておられるイエス様ご自身が、父なる神が善い方である、という証言しています。

      ですから、理解できない部分よりも、はっきりと理解できる「神の愛と義」に信仰の焦点を合わせる必要があると思います。

      「またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」(ルカ18:18)

      以下の記事も、この点で参考になるかと思われます。
      http://true-ark.com/bible-faq-hell-suffering-reason/

      書籍としてお勧めなのは、以下の「臨死」です。元無神論者のハワード氏が、臨死体験中に、イエスと天使に、あらゆる疑問を投げかけて得た回答を、見事に記録しています。
      http://true-ark.com/lifestory-howard-storm/

      最後にもう一点、自分の意志でなくとも、この世に生を授かったことは、無条件に感謝すべきことだと私は思います。私が初めて創造論を学び、自分が素晴らしい目的を持って造られたことを知った時、その神に従って生きるのは自然なことだと思いました。

      • ポン酢 より:

        「私が、神を理解できないから、私より、神様のほうが間違っている」というのではなく「私は有限だから、全部は神様を理解できないけど、私より、神様は、比べ物にならないくらい正しい」と言うべきだと思います。なぜなら、私より神を上に置くことは、信仰の真逆だからです。
        私がもし、正しくても間違っていても、神は神です。神が全能であることが変わることはありません。
        「造られた陶器が、造った陶工に向かって『なぜ私を造ったのか?』と言えるだろうか?賎しいもののために造られた陶器が、もし、主の憐れみのゆえに粉々に壊されなくて、我慢してもらって、しかも、他の良いことに用いてもらえるとすれば、それはただ、主の恵みでなくて何だろうか?造った者に意見するものよ。」と聖書に書いてあるからです。
        聖書箇所は意訳です。正確には、イザヤ45章,エレミヤ18章,ローマ9章の有名な陶工のたとえを読み、黙想して下さい。
        松田姉妹に、主の祝福かありますように。

        • 松田 より:

          返信遅れてすみません。コメントありがとうございます。神に不平を言うことは、自分が神の上に立っている事だと言うことは、分かるのですがヨブ記に 私は 与え奪うとありますね。私は、娘を亡くして信仰が薄れてしまいました。
          愛する者を亡くし当たりどころがなく神様に当たっていました。
          奪うなら最初から与えるな!なんて酷い事も言っていました。顔を見る事も 声を聞くことも叶わず 本当に酷い神様だと思いました。顔は、見えなくてもいいからせめて声だけでも。どれも叶わないなら天国の住所を教えて下さい。手紙くらい届けて下さい。そして娘からの返事を下さいと。
          心も捻くれてしまい教会に6年ほど教会に行けませんでした。今は 疑問を抱えながらも通っています。

          10年経っても今だに娘の部屋には、入れませんし写真も見れません。

          今は もう思いませんが こんな悲しみがある世界に生まれて来なければよかったと思いました。

          7年前から水彩画を習いはじめ 薔薇を育てる喜びも見つけました。大丈夫です。病気のデパートですが与えられた命は、全うします。
          ポン酢さんの上にも主の祝福がありますように。

      • 松田美喜子 より:

        返信が遅れてしまいすみません。実は何処にコメントを入れたのかわからず今日 気がつきました。折角返信していただいたのに申し訳ありません。

        私が30歳の頃義理の姉が3人の男の子を残しガス爆発に事故で亡くなりました。
        私も2人の子供に恵まれ幸せに暮らしていましたが人生の儚さを嫌という程、味合わされました。元気だった義理の姉が突然亡くなり初めて火葬場に行くことになり骨と灰になったのを目の当たりにし何とも言えない虚しさを味わいました。
        そんな時 エホバの証人が訪ねてきて 聖書を2年程学びましたがどうしても教義について行けずアメリカに本部のあるルーテル教会に行き聖書を学ぶようになりました。
        エペソ2:8のみ言葉に触れ心が救われました。生涯 聖書を手放すことは、ないと思うようにになりました。結果として父母 夫 娘が洗礼を受けました。

        元気だった娘は10年前、母が亡くなり2ヶ月後に肺がんで亡くなりました。宣告され1ヶ月半の命でした。
        私は、伝道者の書が好きで病床の娘によんで聞かせました。「お母さん 聖書の話しをしている時は、生き生きしているね」と言ってくれました。そに翌朝 「聖霊が降りた!」と私の寝室に駆け込んできて「洗礼を受ける」と言い出しその日の内に宣教師に電話をして数日後に洗礼を受けましたが1ヶ月もしない内に召されました。

        クリスチャンでありながら絶望してしまい一年後には、心不全を起こし1ヶ月以上入院しましたが どう言うわけか私は 未だに生かされています。娘をなくした後は、すっかり信仰を無くしどんなみ言葉も心に響かなくなり 教会に通えなくなりました。宣教師の計らいで個人宅で聖書の学びだけは、続けました。6年後宣教師に背中を押されて教会に戻り今に至っています。信頼していた宣教師がアメリカに戻り信仰が揺らいでいます。
        娘をなくした一時の激痛は、ありませんが全治一生の傷は、毎日痛みます。
        私が教会から逃げようとしても、神様から首根っこを掴まれていて逃げれないんです。疑問を持ちながらも教会 聖書からは、離れられません。折れた葦 燻る燈心の状態です。教えていただいたサイトを途中まで見ました。書籍を買い求めて見ます。ありがとうございました。

        次回から 洗礼名マルタでコメントしますので宜しくお願い致します。

        • うゆ より:

          松田姉妹
          私も主の正義や目的がよく分からず、主を信じきることができませんでした。ユダや、これからくる反キリストの獣なども、キリスト教の犠牲者なのではないかと思っていました。
          でも、主の正義の方が絶対的に正しく、私の思う正義が間違っているはずという仮説のもと、全然納得できませんが、無理やり主は正しく平和のお方だということを心に刻んでみました。また主にあなたの正義や平和を教えてくださいと願いました。
          そうしたら黙示録が示されて、主が平和の君で正義のお方だということが心から理解できるようになりました。このことでようやく神と和解できたような感覚になりました。そしてより自然に主を愛するということができるようになりましたし、主と共に生きるために人間が造られたということも身にしみてきました。
          私の信じている神は、松田姉妹の神と同じです。そのお方は、必ず慰めも用意してくださっています。
          私の体験が何か参考になれば嬉しいと思いコメントしました。
          主が松田姉妹の疑問に完全に答えられ、心の傷も完全に癒してくださいますように。また主との関係が永久まで愛に満ち満ちたものになりますように。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。

  4. 小野寺清栄 より:

    十戒で汝殺すなかれと我々には言いつつ、自分で人を殺害するのは矛盾しますね。私は神は人を殺害しないと思います。聖書を書いた人が神の裁きという思想を用いて自分と同じ信仰を持たせる為の手法だったのではないかと思います。

    • true-ark より:

      コメントありがとうございます。
      その論法で考えると、日本の法律も矛盾していることになります。殺人は犯罪ですが、犯罪者を死刑にすることがあるからです。
      しかし、個人的な理由による殺人と、罪に対する裁き・法の執行としての処刑とは分けて考えるべきことは、誰でも感覚的に理解しているものです。
      聖書の十戒も、それと同じです。どうぞ、以上の点を念頭に、読み直してみて下さいね

      • 社会不適合者 より:

        創造し、支配している者に対しては、相応の理由があれば、罰を与えて良いという理解でよろしいでしょうか?

        その理論が正しいなら、僕をしつけとして、様々な虐待をしてきた親(僕を産み、親権を持っています)は何の問題も無いということでしょうか? それは少し悲しいです。

        • true-ark より:

          お辛い家庭環境を経験されたのですね。虐待は、明白な罪であり、「相応の理由」として正当化されるものではございません。神は、虐待をしたりは、決してされません。全ての問題を、公正に裁かれるお方だからです。あなた様の上に、神の癒やしが注がれますように。もしも、心の傷の問題をかかえてらっしゃる場合は、以下の書籍はお勧めです。 魂の傷からの癒やしと回復

  5. KY より:

    愛は個々の自由な意思からしか出てこないためか?。

    • true-ark より:

      仰るとおり、愛は自由意志があって初めて成り立つ感情だと考えられます。

  6. ビギナー より:

    こんにちは。いつも素晴らしい記事を発信していただきありがとうございます。
    このサイトのおかげで聖書に関する疑問がたくさん解決されました。

    キリスト教は全ての人に開かれている。イエス様が私たちの方に歩み寄ってくださる。信じるか信じないかは自分次第ということは理解いたしました。

    ですが、疑問が残っています。キリスト教に触れる機会が生まれながらにしてない人たち、例えば小さな島に住む民族や、北朝鮮に住む方々はキリスト教の存在すら知らずに亡くなっていく人もいると思います。信じる信じないの前に知るチャンスすらない人もいると思います。

    これらの人々は「知らなかった」というだけで地獄にいくしかないのでしょうか?
    キリスト教徒が極端に少ない日本でさえも学校の授業や日々の生活の中で
    知る機会はあると思います。そういう「キリスト教を知っていたけど受け入れなかった」
    というような人々とは異なると感じました。

    この点はどのように解釈したらいいのでしょうか?
    ご回答よろしくお願いします。

    • true-ark より:

      いつもご購読いただきありがとうございます。
      当サイトが、色々な疑問の解決に手助けとなれたようで幸いです。
      いただいたご質問に対して、回答をさせていただきます。

      ■まず現代の世界において、福音を知る機会の無い人はほとんどいません。
      一見届いていないような地域でも、神は救われるべき人の元へ宣教師を遣わしたり、超自然的な体験を与えたりして、キリストへ導いておられます。
      ・北朝鮮には、地下で活動しているキリスト教徒がたくさんいると聞いています。※表には情報は出ません。ちなみにそのクリスチャン人口比は、日本のクリスチャン人口比より高いと聞いております。
      ・小さな島に住む民族にも、色々な国の宣教師が派遣されています。
      ・伝道が禁止されているイスラム系の国々では、イエスが超自然的に現れ、直接イスラム教徒へ伝道をしておられます。
       それらの国のクリスチャン人口比も、日本よりも高いです。
      ・残念ながら、最も難しい国は日本だと言えるでしょう。

      なお、上記を踏まえても、特に過去の時代において、絶対的に福音を聞く機会を持つことができなかった人がたくさんいると思います。
      その人々は、地上生涯において、どれだけ一般啓示に応答して生きていたかによって、裁きを判断されると思います。
      一般啓示とは、聖書ではなく、自然界を通した神の啓示のことであり、人は誰でも、自然界を通して、神を知ることができるようになっている、ということです。
      この点の根拠は、ローマ1章に書いてあります。
      「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」

      また何かご質問等あれば、気軽にお問い合わせ下さいね。

      • ビギナー より:

        わかりやすくご丁寧な回答ありがとうございます。
        2つ疑問が残ったので再度質問させてください。

        1.「超自然的な体験を与えたりして、キリストへ導いておられます。」というのは夢の中に現れたり、思考を書き換えたり、日常の経験を通して導いたりというような具合でしょうか。

        2.「なお、上記を踏まえても、特に過去の時代において、絶対的に福音を聞く機会を持つことができなかった人がたくさんいると思います。その人々は、地上生涯において、どれだけ一般啓示に応答して生きていたかによって、裁きを判断されると思います。」という部分に関してです。その伝えられた一般啓示で知り得た神をどれだけ信仰したか?または感謝したかという部分が判断され天国にいくか地獄に行くか裁かれるという理解でよろしいでしょうか。

        また、その際は、その神がイエス様である。または自分はクリスチャンであるという自覚はなくても良いのでしょうか。

        それとも根拠として提示していただいたローマ1章にあるように神を知り得た段階でもうその神はイエス様である自分はクリスチャンであるということが超自然的にわかるようになっているのでしょうか。

        ご回答よろしくお願いします。

        • true-ark より:

          1.「超自然的な体験を与えたりして、キリストへ導いておられます。」というのは夢の中に現れたり、思考を書き換えたり、日常の経験を通して導いたりというような具合でしょうか。

          >見える形で顕現する、幻や夢で現れる、などの複数のパターンがあります。
          以下の証を読んでみて下さいね。
          http://true-ark.com/category/life-story/ex-muslim/

          2:その伝えられた一般啓示で知り得た神をどれだけ信仰したか?または感謝したかという部分が判断され天国にいくか地獄に行くか裁かれるという理解でよろしいでしょうか。

          はい、そうだと思います。ですから、結果的に不道徳な生き方をしていた人は、そもそもそういう信仰のあるタイプの人ではないので、救われていないと考えられます。
          ただし、イエスが神である、という点は、一般啓示ではなく、聖書を通した特別啓示でないとわからない真理なので、そこまでを求められることは無いはずです。

          原則として、その時点で与えられた啓示の内容にしたがって、それに応答する、ということがありますので。

          そして、前の時代に、福音を知らずに死んだ人については、これ以上の詳細なことは何も言えません。聖書もそのあたりは、すっきりと明快に答えてはいないからです。

          私たちが、ただ知り得ている確かなことは、神が善い方である、ということです。(マタイ19:17)

          • ビギナー より:

            ありがとうございました!
            紹介していただいた記事を読んでまた理解を深めたいと思います!

  7. ひつじ より:

    どの訳の聖書を読めば正確な理解に繋がるんでしょうか?いろいろありすぎてわかりません。
    聖書をしっかりとは読んではいませんが。。

    • true-ark より:

      http://true-ark.com/bible-bible/#i-7
      上記にて、アドバイスを載せてあります。

      まだしっかりと読んだことがおありでないようでしたら、一度時間をとって、ルカの福音書~使徒行伝までを、一気に読み進めてみられることをお勧めしたいと思います。イエスが、どんなに憐れみ深い方で、彼がどんなことを行ったのか、一通りわかると思いますよ。またわからない点があれば、いつでもお問合せ下さい。
      ひつじさんの上に、神の導きが留まりますように。

      入門用の聖書講座としては、以下もお勧めできます。
      https://subsplash.com/messagestation/top-page/ms/+5746dad

  8. ひつじ より:

    わたしは全然感謝できてません。生まれなければよかったとさえ思います。
    わたしの生き方に尊敬もできません。ただ土に帰るのみです。

    • true-ark より:

      神は、ひつじさんを、ただ土に帰る存在としてお造りになったわけではございません。永遠に、神の子供となり、あなたを祝福するために造られたのです。しかし、ひつじさんがその招きに応じるかどうかは、ひつじさん次第です。もしも、ひつじさんが福音を信じ、永遠の命を持たれるなら、それまでの人生のどんな悪い経験も、このためにあったのだと知ることとなります。

      聖書をしっかり読んだご経験はおありですか?

  9. ひつじ より:

    神は悪魔の存在や人間に自由意志を与えればこうなることを予見できなかったということですかね。
    記事とあまり関係なくごめんなさい。

    • true-ark より:

      ご返信遅れて申し訳ありません。コメントありがとうございます。
      ご指摘の内容は、記事の内容と重要な関係があるかもしれません。
      つまり、悪が増殖し、その悪人たちが大量に裁かれるようになることは、自由意志を与えることの結果であることがわかっているのなら、なぜそのような自由意志を持つ人間を創造されたのか・
      神が愛であるのなら、それは矛盾ではないか?という指摘です。
      まず、聖書によれば、確かに神は、世界の創造の前から、人類の多くが反抗することを予期しておられたと思います。しかし、その張本人であるイエス・キリストは、神が愛であり唯一の善い方であると証言しました。実際に、彼の生涯は、その通りのものであり、それに異論を唱える人は、世界的に見ても少数であると言えます。
      ですから、イエスが神の子であると信じるクリスチャンは、そのような前提で、聖書を理解することになります。もっとも、このような理解は、ノンクリスチャンにとっては理解が難しい問題でしょう。

      もう一つの点としては、私たちの側において矛盾と思えるような出来事でも、神の側では矛盾ではない、ということが考えられます。というのも、私たち人間は、あらゆる点において、神とくらべて有限な存在であり、真理の全貌を理解しているわけでは決してありません。すると、矛盾だと考えていることが、限られた知識に基づいた誤解である、ということも十分に考えられるのです。

      最後にひつじさんにご質問があります。
      ひつじさんは、今生きていること、この世に生を与えられたことを感謝できますか?
      「生きていて良かった」と思えることが、人生でありますか?

  10. ZERO より:

    ただ一つだけ
    神の存在を認めず、従わないのは、
    人間の罪であり、存在は、認められないのです。

  11. 無知者 より:

    絶対の権利者で想像したものの良し悪しで生殺与奪を当たり前とする。
    なんか恐ろしいばかりで悪魔と変わらん気さえする。

    そもそも万能なんだから、ちゃんと諭せないものなんだろうか?
    もう無理、諭すとか無理。はい皆殺しね!みたいな話にしか聞こえないですね。

    • true-ark より:

      神は人に自由意志を与えたので、最終的な裁きの結果は、人が自らの選択で招いたものです。
      無知者さんのご批判で一貫している部分は、個人的な復讐と、法に基づく裁きを混同しているところだと思いますよ。
      法に基いて裁きを行うことは、どの人間社会でも一般的に行われていますが、誰もそれを批判しません。

  12. 縄文人 より:

    TRUE-ARK さんによると縄文人はノアの末裔らしいですね。
    縄文文化を見ていると、とても信じられませんが。
    (例えば聖書以外の世界では、縄文人は当時世界最大級の丸木舟で小笠原あたりまで航海していた痕跡がありますが、
    箱舟を建造してトルコから極東まで旅した民族の末裔にしてはやることがショボイですね)
    その以前の旧跡時代に日本に在住していた原日本人は
    神の怒りに触れて洪水で絶滅してしまったのですね。
    縄文人とDNAパタンが似ているのも不思議な話ですが。
    旧石器時代の日本人はどのような悪行のため、大洪水で虐殺されたのですか?

    • true-ark より:

      ・日本の古代人の年表は、炭素14法に従って推測されていますが、
      文字の資料で客観的に照合できる資料が無いので、完全に断定することはナンセンスです。
      実際に、文書資料で遡れる最古の文明は、やはりメソポタミアやエジプトあたりです。
      放射性炭素年代測定は、多少の誤差もある可能性があるので、創造論者は、1~2万年前程度の数値は、あまり気にしていません。
      このあたり、前にもお伝えしております。

      • マグダラのマリア より:

        >日本の古代人の年表は、炭素14法に従って推測されています
        古代の日本人、縄文文化の年表は炭素14法だけで推測されていないことを、あなたは良く知っているハズですが?
        また、知らぬふりですか?ウソつくと天国に行けませんよ!
        大量の出土品の時代別変化、年輪法、水月湖などの湖底年縞、姶良Tnなどの火山灰…etc 水月湖のほとりでも縄文遺跡が出土しています。
        >最古の文明は、やはりメソポタミアやエジプトあたりです。
        ?? 聖書が絶対に正しいとして、エジプトの文献は全く無視する人が不思議なことを書きますね?
        中国でも殷の時代(紀元前17世紀)からは文献資料がありますよ。
        姶良カルデラが噴火(30014年前)する以前の地層から縄文人の貝塚など遺跡が多数発掘されているから、ノアやアダム&エワのはるか以前から日本列島には人類が住んでいたのです。
        その後も日本列島が水没したことを現す、地質的痕跡は皆無です

        • true-ark より:

          この問題に相当こだわっておられるようですね。
          まず、炭素14法やその他の手法は、有史以降の4000年前くらいまでなら、他の考古学的資料との比較により信頼性が確認されていますが、それよりも古くなると、どうしてもある程度の前提や推測が入りますので、絶対的な指標とはなりづらい、という点をまずお伝えさせていただきたいと思います。

          縄文時代の遺跡についても、その全ては文書的な資料での年代の証明が難しいので、水月湖の年縞や、それによってわかっている時代ごとの炭素の量を炭素14法に適用する方法によって、年代を算出されているのだと思います。

          この点については、米国の創造論団体が発行している英語の論文が、邦訳される予定だとは聞いていますが、現状はまだ進んでいないようなので、言及を控えたいと思います。そこで、今回は少し違った視点で、この問題を考えてみます。

          水月湖の年縞は、約七万年前まで遡れるようですが、この七万年前という年代は、ノアの大洪水のみならず、保守的な創造論者が支持する「若い地球説」とも矛盾してきます。では、ノアの大洪水の話は一旦置いておき、今からおよそ六千年前に天地創造が行われたとするこの若い地球説を支持する科学的な証拠について、少しご紹介をしたいと思います。

          天地創造が七日間だったことを証明するとされる科学的な事実は多岐に渡りますが、その中から七日間の創造説を否定する創造論者が異を唱える説については、省いてご紹介を致します。

          (1)地球の磁場
          アメリカの著名な創造論者、ラッセル・ハンズフリー博士によれば、地球の地磁気は減退傾向にあり、過去にさかのぼって地球磁場の限界に至るまでの年代を概算するなら、それは「最大で8700年」であるとしています。

          (2)宇宙空間から地球と月に降り注ぐ「宇宙塵」の量
          宇宙塵の量は、これらの星が極めて若いことを示しています。当初進化論者は、月の年齢が地球と同じ45億年くらいと考え、月面の宇宙塵の量を10メートルにも達するだろうと推測しましたが、実際の月面の塵の厚みはたったの数ミリでした。テキサス大学教授ハロルド・S・スラッシャー博士は、「宇宙塵の堆積年数は、数十億年というより、むしろ5~6千年にしかならないことがわかります。」と語っています。

          (3)超新星のステージと数
          は巨大な星の爆発で、短い期間、銀河のどの星よりも明るく輝きます。物理的計算によれば、超新星の残骸(SNRs)は、数十万年間も拡散します。ところが、時間が経って広く拡散した(第三段階)は存在せず、比較的若い(第一段階)ものでさえ、天の川銀河にも伴銀河であるマゼラン雲にもほとんどありません。超新星が広く拡散していないということは、銀河は非常に若いとかんがえられるのです。・・・「創造の疑問に答える」91項。
          参考までに、銀河年齢を六千年とする創造論モデルの場合、第二段階の超新星の数はおよそ200程度になると推測され、進化論のモデルでは2000個以上と推測されます。では、実際に観測される第二ステージの超新星の数はというと、たったの200程度であり、事実は創造論のモデルに実によく合致するのです。

          (4)若い地球を示す60以上の世界的規模の事象
          創造調査研究所の総主事であるヘンリー・M・モリス氏は、その著書「現代科学の聖書的基礎」477~480項、地球と宇宙の年齢が、進化論者の必要とする数十億年よりも遥かに短いことを示す全世界的規模の事象を60以上リストしています。ご興味があれば、是非ご自身で確認をしてみて下さい。

          以上の点から何が言えるでしょうか?それは、水月湖の年縞が、進化論を肯定する一つの科学的な証拠の一つであるとすれば、それに否定する創造論者側の別の科学的な証拠もあるのです。

          では、これらの反論し合う科学的な証拠を前にした時に、どんな基準に沿って、どちらが正しいかを判断されますか??もしもあなたが「科学」を信じるのなら、どちらの科学的な証拠も考慮するべきではないでしょうか?

          しかし、歴史科学というのは実に難しいものであるため、何らかの前提を据えなければ、これが真理だと確信することは中々できません。

          当サイトは、聖書の記録を真理として受け入れています。なぜなら、その根拠は、人間の不確かな科学ではなく、創造の当事者である神の言葉を、また天地創造の前から存在してきたキリストの証言を、その土台として受け入れているからです。神による目撃証言の方が、揺れ動く科学よりも、ずっと信頼できるのではないでしょうか?

          ◆エジプトの年代記と聖書との矛盾
          まず、現行のエジプトの歴史は、歴代の王の年表を、そのまま縦に並べたものだということを確認しています。しかし、実際には複数の王が、同じ時代に別々の場所で王として統治していた可能性にについて研究している専門家がいます。この点についてはまだ研究中らしいのですが、この研究の結果が事実だとすれば、王朝の年表は従来よりも短縮されることとなり、聖書の記録と合致してきます。

          私の知人に、エジプトの歴史に詳しい人がいましたが、彼にこの問題を尋ねたところ、「エジプトの昔の王たちは、王が変わる度に過去の歴史を平気で修正したりするから、自分はエジプトの歴史の正確性はあまり信用していない」とのことでした。

          この見解を裏付けるかのように、エジプトの年表と合わないのは、聖書の歴史だけではありません。アッシリアの古代史とも、現行のエジプトの歴史が調和しないことが専門家の間で明らかとなっています。つまり、現行のエジプト史は、聖書ともアッシリア史との調和しないのです。

          ちなみに、中国の歴史が紀元前1700年から記録されているとのことですが、聖書の年表上、大洪水の後の時期ですので、本件とは関係がありません。

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