4. 殺人について―腹を立ててはならない|山上の垂訓の解説


山上の垂訓 殺人について

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殺人について(マタイ5:21-26)

21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれます。

23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。

25 あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。そうでないと、告訴する者は、あなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡して、あなたはついに牢に入れられることになります。26 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。

ここからの一連のメッセージでは、「~と言われたのを聞いています。しかしわたしは~と言います」という定式化した言い回しがしばらく続いていく。「~と言われた」とは、民衆がパリサイ人から教えられてきた口伝律法を意味している。(モーセの律法ではない)それに対してイエスは「しかし~言います」という表現によって、口伝律法の誤りを指摘し、正しい解釈を提示していく。

人を殺してはならない、腹を立ててはならない

21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

当時の口伝律法によれば、殺人の罪は、実際にそれが外面の行動となって現れた時に、はじめて裁きを受けた。これは今日の一般社会でも同様である。ところが、イエスの教えによれば、殺人の罪は、心の中で誰かを憎んだ時から、既に始まっている。

心の中で始まる憎しみは、例外なくその程度に応じた裁きを受けることになるが、もし私たちがこの種の罪から離れないなら、最終的にその行きつく先は「火の燃える地獄」であると、イエスは明言した。

理不尽なことで相手に腹を立てて、憎しみを宿すことはもってのほかだが、時に私たちは周りの人間から不当に悪く言われたり攻撃されたりすることによって、心の中に憎しみを宿すことがある。相手から受けた痛みが大きければ大きいほど、憎しみを消し去ることは難しくなる。では、そういう時に、このイエスの言葉に従うには、どうすればよいのだろうか?

憎しみを捨て去るために知るべきこと

神の裁きが現実であることを知る

それは、全知全能の裁き主である神を知ることである。聖書に「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)とある通り、人は誰でも死んだ後に、地上の生涯で行ったことの報いを受けることになっている。

誰かに危害を加えても、然るべき悔い改めをしないなら、その人が受ける裁きは、イエスが語った通り、燃える地獄である。そこは、私たちの想像を遥かに越える悲惨な場所である。もし私たちがこの真理を深く理解するなら、憎しみを捨て去って、完全なる神の裁きに思いを委ねることができるようになり、加害者がそのような場所へ行くことが無いよう、祈ることさえできるようになるだろう。

神の赦しを知る

周りの人間に腹を立てる前に、人は各々自分自身がまず罪人であり、神の前に赦される必要があることを知らなければならない。私たち人間が、日々罪を犯すことによって神の前に蓄積した負債は山のようであり、到底自分の努力でその穴を埋めることはできない。

しかし、神は人間を赦すために、全ての人の罪の身代わりとして、独り子であるイエスを十字架に付けた。誰かに腹を立てる前に、自分が神から惜しみなく赦された罪人であることを知り、また腹を立てた相手も同じように神から赦しを与えられた罪人であることを知るならば、心の中から憎しみを捨て去ることが可能となるだろう。

まずあなたの兄弟と和睦しなさい

もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物は・・祭壇の前に置いたままにして、・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。

犠牲を携えて神に供え物を捧げる行為は、罪ある人間が神に近づく方法として、ユダヤ教でとても重んじられていた礼拝行為である。しかしイエスは、自分の隣人と平和な関係を維持するよう努めていないのなら、たとえ犠牲を捧げたとしても、それは十分に神に受け入れられるものとはならない、と語った。

旧約聖書のホセア6:6では「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」とあり、イエスが語った教えは、聖書の中で、繰り返し示されてきた原則だったことがわかる。(箴言21:3も参照)

普段の生活で、家族や友人などの周りの人々と、平和な関係を維持することを蔑ろにして、他の活動を優先している時はないだろうか?隣人との平和な関係を築くために、思いやりや親切を示すことは、時にそれらの活動を差し置いてでも、優先するべき大切な行いなのである。

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2件のフィードバック

  1. waka より:

    昨日、受洗を前にした大学生が、警察署に嘘の紛失届を出すことで、何万円か儲けたという話をし、そこにいた子供祈祷会の指導者をしている母親は、同意して手助けをしていることを、私ともう一人の人は、たまたま知ることになった。

    昨夜はそのことで私は眠れないくらい腹が立った。そして祈った。今からでも嘘であったことを関係機関に謝罪して、一からやり直して、スッキリして信仰生活をスタースできるようにと祈った。

    しかし、今朝、この記事を読んで、大切なことを自分は忘れていたことに気づきました。
    ★私自身が十字架によって赦されている罪人であり、いまだに高慢で、また嘘をついても平気なところがあるのにも関わらず、神は愛していてくださること。
    ★私の罪に対して、兄弟姉妹がどれほど寛容であったかということ
    ★相手の学生も、その母親も神に愛されて、訓練と聖化へ導きの途上であること。

    時にかなってみことはが与えられることを感謝します

    • true-ark より:

      コメント感謝です!

      その大学生ですが、罪は全て罪ですが、程度というものを考えると、本当に洗礼を受けるに相応しい信仰を持っているかどうか疑問点があります。というのは、この場合、消極的な行動ではなく、計画の上で実行する「積極的な行動」を伴う罪だからです。洗礼前というのは、特に、神との関係を吟味する大切な時期ですので、そのような時に、積極的な行動にでる、というのは、やはり吟味の余地があるように思えます。私だったら、直接本人と話し、信仰の状態を確認するかもしれません。

      一方、誰かが罪を犯しているのを知った時に、腹を立てるのではなく、自分も同じ罪人であると気づき、哀れみの心を持つことは大切ですね。WAKA様が、主の平安に満たされた心で、周りを見ていくことができますように。祝福します。

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