異言の力~ 聖霊のバプテスマが私に与えた四つの重要な霊的変化


ハレルヤ!あけましておめでとうございます。いつも当サイトをご覧いただきありがとうございます。2022年の初投稿として、異言の恵みを読者の皆様に分かち合えることを主に感謝しています。それは、昨年の9月頃から聖霊のバプテスマのしるしである異言を通して、私がいかに恵まれ祝福され、霊的な変化を体験してきたかに関するものです。

  • あなたは神からの賜物としてすでに異言が与えられていますか?
  • 異言がすでに与えられているなら、その異言が素晴らしい恵みの賜物であることを日々体験していますか?

もし、この二つの質問に対する答えの中に「いいえ」があるのなら、この記事はあなたにとって大きな祝福となるはずです。

安産と難産~異言が出るまで長くかかった私の人生

「ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。・・あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。・・ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」(ルカ11:9~13)

異言を出産にたとえるなら、それには「安産」と「難産」があります。「安産」とは、祈り求め始めたら、すぐに与えられるケースです。聖霊のバプテスマを求めて自分で祈ったら、あるいは他の人に祈ってもらったら、その場ですぐに異言が与えられることが多くあり、聖書の使徒の働きに出てくる全てのケースは、この安産に該当するでしょう。(使徒の働き、2章、8章、10章、19章)

一方、祈り始めても、中々与えられず、中長期間に渡って待ち続ける必要が生じる場合もあり、私はこれを「難産」と呼んでいます。かくいう私自身、極めて「難産」でした。エホバの証人であった時代、組織の間違いに気付き始め、キリスト教の本に手を出し始め、大きな衝撃を受けたのが、「朝の九時―聖霊の体験とその後10年間のあかし」(デニス・J.ベネット著)という本でした。その本を通して、聖霊のバプテスマと異言が現代にもあるのだと知り、「間違いなくキリスト教サイドには聖霊の働きがあるではないか!」と確信し、教会の門を叩き始め、異言を求めるようになっていったのです。その後、色々な牧師先生に祈ってもらったり、自分でも祈り求めてはいきましたが、中々与えられず、三年以上が過ぎていきました。

そして、一年以上前、私が家で、ある人のガンの病気の癒しのために祈っている時に、突然口からそれまでに無い言葉が流れように出てきたのです。「これは確かに異言だ!」と確信した初めての時でした。(なお、その日をさかのぼること数週間くらいの間にも、私は幾つかの場面で異言のために祈ってもらっていました。)

異言が不安定な時期を通る

やっとこさ異言が出始めた私でしたが、その後、しばらくの間は、今思うと、色々な意味で不安定さがありました。たとえば時期によっては、その異言が出づらくなる時期がありました。そのような時は、それっぽい音が口から出ても、それが異言だということについて、自分の中であまり確信がありませんでした。

また、異言がある程度出るシーズンに、異言で毎日多めに祈ってみたり、異言で歌ってみたりなどしました。そのような時、自分の口から出てきているものが異言であることはわかるのですが、その異言を通して、何か自分の中に大きな変化が起こるのを体験したり、何か大きな打ち破りが起きている感じがありませんでした。

もっとも、そのような時期にあっても、その変化を周囲が感じ取ることはありました。ある時、礼拝でメッセージをする前に、普段より多めに異言で祈ってからメッセージをした時に、「今日は神の臨在がとても強かった」と言われたことがあります。また、時々友人たちと、異言の解釈のトレーニングをしたりするのですが、私が異言にメロディーを乗せて語った時に、巻物が開かれていったり、そのような幻を受け取る人がいたりしました。

このように、それが異言である以上、霊的には確実に何かが起こっているのですが、それをはっきりと自分自身でも体験するまでには、今思えば、さらに打ち破られなければならない壁があったのです。

異言の打ち破りが起こる

それは、突然起こりました。その日の夜、友人のKさんの解放の祈りをすることになっていたので、朝から断食をしていました。そして、午前中に家で祈っていると、突然、今ままでに出なかった異言が、流れるように出始め、およそ1時間くらい、その祈りが止まらなかったのを覚えています。(もっとも、自分の力で止めれなかったということではなく、流れていたので止める必要もなく、流れ続けるに任せた、という感じです)

そしてその異言を通して、聖霊の流れが強くなることを実感しました。それまでも、異言では祈ってはいましたが、何か大きな変化が起きたことを実感したのです。そしてその日の夜、Kさんの解放のセッションでは、素晴らしい神の力が現わされ、Kさんは大きな解放を受けました。(もっとも、その日の解放の成功には、複合的な要因があったと思います。)

その日以降に感じた変化の一つは、異言で祈り始めてある程度たつと、いつも神の臨在を感じるようになったことです。大体5~10分くらい祈ると、神の臨在を通して、神がそこにおられることを実感し始めるのです。

その後、更なるブレイクスルーを体験し始めたのは、私が家の二階の部屋を整理し、そこで毎朝神に祈るようになってからです。その前までは、その部屋は寝るだけで、あまり片付いておらず、聖別のために捨てる必要のあるものが(今思えば)色々と残っていました。

しかし、それらを一掃して整理整頓をすると、それまでは一階で行っていた祈りを二階の部屋で行いたくなりました。またそのタイミングで、朝の祈りの時に、5~10分程度の異言の祈りから始めるようになったのですが、この習慣を通して、極めて大きな重要な霊的な変化が起こるようになったのです。

異言の力① 聖霊に満たされ、啓示を受けることが多くなる

神の臨在に包まれる

「異言で語る人は、人に向かって語るのではなく、神に向かって語ります。だれも理解できませんが、御霊によって奥義を語るのです。・・・4異言で語る人は自らを成長させますが、預言する人は教会を成長させます。」(第一コリント14章2~4)

朝起きて、お湯を飲んだり、うさちゃんの餌をあげるなど最低限のことをこなしてから、二階の部屋の椅子に座り、異言での祈りを始めます。すると、日によって強さの違いはありますが、ほのかに神の臨在を感じ始めます。そして次に、知性の言葉で祈り始めるのですが、その祈りの言葉を通して、神の愛に包まれたり、その言葉のより深い霊的な意味を聖霊によって啓示されることが頻繁に起こるようになったのです。

世界の基が据えられる前から選ばれていた

ある日私が、世界の創造前から私が救いのために選ばれていたことへの感謝を祈ったら、突如聖霊による喜びに包まれ、涙が溢れてきました。

「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。5 神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」(エペソ1:4~5)

天使たちへの注文と聖霊による応答

その次の日には、知性の言葉の祈りの中で、次の二つのみ言葉を告白するよう導かれました。

「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」(ローマ8:14)

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)

この二つの聖句は、エホバの証人への伝道において、極めて重要な意味を持ちます。なぜなら、彼らはこれらの言葉の意味を否定し、イエスを信じても神の子供になれない、と信じているからです。それで私は「天のみ使いたちよ、これらのみ言葉を、日本中のエホバの証人に届けなさい」と言いました。すると、聖霊の力が大きく私の上に振ってきて、私は涙を抑えることができなくなりました。

イザヤ6章の幻を示される

また別の日には、朝の祈りを終えて聖霊に包まれた状態で、一階に降り、「Give thanks」というワーシップを聞いていました。すると、聖霊に満たされ始め、神への愛と感謝が起こり、涙が溢れてきました。そしてイザヤ6章の幻が思い起され、「誰がわれわれのために行くだろうか」という問いかけと共に、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と答える自分がそこにいたのです。

「私は主が言われる声を聞いた。『だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。』私は言った。『ここに私がおります。私を遣わしてください。』」(イザヤ6:8)

神から来る喜びは誰も奪うことができない

新年が明けて、二階の部屋で祈りながら、「主よ、あなたの喜びを受け取ります。人はそれを奪うことはできません」と祈ると、そこでハッとしたのです。「主よ、これは啓示です。人が私に与える喜びは、人が奪うことができます。世が私に喜びを与えるなら、世はそれを奪うことができます。しかし、あなたからの喜びを受け取るならば、人はそれを奪うことはできません。世も、悪魔もそれを決して奪うことができません。なぜなら、あなたから来る喜びは、決して絶えることなく、変わることなく、それは永遠に続くからです。あなたをほめたたえます!」

私は聖霊に満たされ、私の内側からは喜びがあふれてきました。ハレルヤ!

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38~39)

2022年、この言葉を告白し、誰にも、どんなものによっても、喜びを奪われないよう宣言しましょう!

「イエスの名によって宣言する―悪魔も、人間も、どのような世の力も、キリスト・イエスにある神の愛と喜びから、私を引き離すことはできない!」

異言の力② 聖化が進み、御霊によって歩めるようになる

御霊の力によって魂が聖められる

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」(ガラテア5:16)

朝の異言の祈りの習慣を続けて、しばらくして気づいた重要な変化は、魂の聖め(聖化)がこれまでに無かったレベルで起こり、思考や思いの領域においても、ほとんど罪を犯さなくなっていたことでした。もっともそれは「いつも完全な愛によって考え、完全に行動できるようになった」という意味ではありませんが、聖書の中で非とされているような肉的な欲や思考から自分が浄化され、そのような思いがほとんどよぎることすら無くなっていることに気付いたのです。これは、本当にすごいことです!それはあたかも、ダビデがゴリアテを倒したようなものです。

なぜなら、ある程度訓練され、言動や行動において罪を犯す頻度が少ないクリスチャンは多くいますが、それでも思いや思考の領域では、戦いや葛藤を経験している場合が多くあるからです。私自身も、神を信じ始めてから、何か決定的な罪を犯すことはほとんどありませんでしたが、思考や思いの領域では、しばしば戦いがありました。「地上を歩んでいる間は、多少の葛藤や戦いがあっても仕方無い」、と思っている自分がどこかにいたのです。だからここ最近、魂の聖めを神に何度も祈る、ということがあったわけではありませんでした。

しかし、異言の恵みによって、御霊の領域により深く入っていく時に、特に意識せずとも、その内側の戦いから解放され、自由にされている自分に気付きました。これこそ異言の力~聖霊なる神の働きなのです!

霊的な高度~聖霊によって第三の天の高度で歩む

飛行機にたとえるなら、それは霊的な高度だと言えるでしょう。もしも私たちの歩みの霊的な高度が100mに満たないなら、世が建てた色々な高層ビルにしょっちゅうぶつかります。3000mならビルにはぶつかりませんが、時々富士山にぶつかります。10000mなら、時々ANAの旅客機にぶつかることでしょう。100000mなら、時々国際宇宙ステーションに乗っている前澤さんにぶつかるでしょう(笑)

地上的な乗り物で、大空(天蓋)の下で飛行している限り~つまり人間的な努力や理性をもって第一の天よりも下の領域で歩んでいる限り、私たちは罪に勝利することができないのです。しかし、憐れみ豊かな神は、私たちをキリストと共によみがえらせ、共に天上に座らせて下さいました。全てのクリスチャンは、聖霊の力により、第一の天と第二の天を通過し、第三の天の高度で飛行するよう召されているのです!神は、そのような御霊の領域で歩むことを可能とさせるための重要なギフトとして、異言という恵みを与えられたのです。

「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」(エペソ2:6)

あなたはふとした瞬間に、肉的な思いや記憶がよぎるようなことがありますか?しかし、御霊の領域で第三の天の高度で歩むようにならならば、ふとした瞬間によぎるものが、神の愛と喜びへと変えられていくはずです。聖霊の力だけが、このような変化を私たちに与えることができるのです。主をほめたたえます!

「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:18)

異言の力③ 祈りが自由になり、より礼拝に入りやすくなる

「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。」(第二コリント3:17)

朝の異言の祈りの習慣と打ち破りを経験してから、祈りの時に発する言葉に変化が起こっていることを感じます。より自由に、祈りの言葉が流れ出るようになったことを実感しています。実際、朝の祈りでよく起こることの一つは、知性の言葉で祈っている時に、その祈りの言葉そのものを通して主が私に啓示を与えることなのです。

つまり、異言を通して私の霊が建て上げられ、より霊的に開かれた状態で祈るならば、知性で祈る時も、その言葉がより聖霊に導かれやすくなるのです。

「それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。」(Ⅰコリント14:15)

クリスチャンであれば、いつも食事をする前に、感謝の祈りを神に捧げていることでしょう。私も、その習慣をずっと継続してきたのですが、最近は、食事の前のちょっとした祈りでも、神への感謝と賛美の告白が前とは違った形で流れてくるようになり、食前のほんのひと時に、自分が神への礼拝の中に入っていくことを実感します。

異言の力④ 神をもっと近くに感じるようになる

異言で祈り、ブレイクスルーを経た後は、明らかに神の臨在を肌で敏感に感じるようになりました。朝の祈りの中で、異言と知性で祈った後は、いつも神の臨在を濃密に感じることができます。そのようなときは、神の前で静まるのに最高の時です。

私は、朝の祈りのひと時を、今ほど楽しんでいることは、これまでのクリスチャン人生でありませんでした。それは私にとって、神様とのスウィートタイムであり、神を近くに感じ、神に感謝し、神からの語りかけを受ける時です。

もっとも、私たちの感覚に関わらず、神は私たちと共におられます。主イエスはインマニエル(神は私たちと共におられる)だからです。私たちの信仰は、第一に聖書に基づいているべきであって、感覚を土台にするべきではありません。しかし、御霊の領域を通して、臨在が流れていることを判別しやすくなるならば、その臨在を感じた時に、神が濃密な形でその場にいることを知ることができます。全能の神が、その場を祝福されていることを理解することができます。それは素晴らしいことです。

最近あった出来事ですが、お正月に実家に帰り、食事の前に食卓を家族で囲んでいると、お腹のあたりに、神の愛と喜びを強く感じました。もちろん、私自身も家族と集う時を喜びとしていますが、私自身というよりは、私の内側に宿っている聖霊なる神が、それをもっと喜んでいることがわかるのです。

「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。』9イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。」(ヨハネ7:38~39)

そして、聖霊が喜んでいる時には、私も釣られて喜びます。聖霊が神の愛を私に満たし、それを実感させる時、私もそのような愛によって生きることができます。それは不思議な感覚です。自分の中に、自分ではない何かがいることがわかると同時に、その何かと自分が一つになっていることもわかるのです。それはまさに、聖書が教えている通りです。私の内にキリストがおり、私はキリストの内におり、私とキリストは一つとされているのです。

「わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」(ヨハネ17:23)

この一体感は、異言のブレイクスルーが起きる前にも、稀に感じることがありましたが、ブレイクスルーが起きてからは、より頻繁に体験するようになっています。

次回の記事では

なぜ2021年の後半に、このような異言の力の霊的な打ち破りが次々と与えられたのか、振り返ってみると、その要因として考えられる幾つかの鍵があることがわかりました。次回の記事では、そのことをシェアしたいと思います。本記事を読んで、異言の恵みをもっとたくさん受けたいと思われる方にとっては、きっと励みとなる内容になるでしょう。

最後までお読みくださりありがとうございました。読者の皆様に、聖霊の力が豊かに注がれますように!

なお、本記事の内容と同様のメッセージを、先日チャーチオンザロックの礼拝で語りました。動画で聴きたい方は、以下よりご視聴下さい。(動画の中では、次回の記事の内容も語っています。)

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8件のフィードバック

  1. Yamada より:

    興味深く読ませていただきました。
    私もいわゆる難産ですので、これからもめげずに祈っていきたいと思います。

    本題から外れてしまうのですが、「聖霊様を冒涜する罪」について教えていただけないでしょうか?
    私は強迫性障害持ちなのですが、その精神疾患と罪の恐怖が合わさって、毎日聖霊様に対する冒涜的な考え(思いに反してでてくる考えです)に悩まされています。
    いち早くこの苦しみから解放されたいと願っているため、差し支えなければコメント欄で解説がいただけたら幸いです。

    よろしくお願いいたします。

    • true-ark より:

      聖霊を冒涜する罪については色々な解釈がありますが、確かに言えることは、この罪は「その力が聖霊によるものだと明白に認識していながら、意図的にそれを冒涜し拒絶する罪」だと言えると思います。

      強迫性障害で悩まれているのですね、これまでに三人の強迫性障害の方のためにお祈りをさせていただき、うち二人は劇的に癒され、一人は徐々に癒されていっています。強迫性障害から来る神への冒涜的な思いは、明らかに本人の意図的なものではなく、悪霊的なものから来ていると思います。そのような思いで「悩んでいる」という時点で、それが本人の本心ではない、ということの証明となっていると思います。本当に「冒涜する罪」を犯す人は、そのことでいちいち悩みません。開き直っているからです。

      主はやまださんが解放されることを願っておられ、解放を願うやまださんを愛しておられます。私たちの方で、お祈りを承ることもできます。ご希望される場合は、どうぞお伝えくださいね。

      • Yamada より:

        True-ark 様

        早速のご返信ありがとうございます。
        いつか意図的にその罪を犯してしまうのではないかという恐怖もあり、毎日祈っていますが、中々気が休まりません。ですので是非お祈りをお願いしたいと思います。

        ありがとうございます。
        どうぞよろしくお願いいたします。

        • true-ark より:

          メールアドレスの方へ、ご連絡させていただきました。
          どうぞご確認いただければ幸いです。

  2. 坂内 より:

    ちょうど、異言について知りたかったので、ピンポイントで役立つ記事をありがとうございます!
    安産と難産の例えがわかりやすくてありがたいです。
    きっと私は難産の方ですね(笑)
    YouTubeも登録させていただきました、実際に参加している感じがして良いですね。
    エホバの証人、カトリック、全ての人々に聖霊の導きがあり、正しい神様の教えが広まりますようにお祈りします。
    …そして、どうか私にも、難産ではあるが無事に異言を賜りますよう、お祈りくださいませ。

    • true-ark より:

      ご覧いただきありがとうございます!難産であっても、ぜひ諦めずに求め続けて下さいな。主は聖霊を与えてくださいます。坂内さんに、聖霊のバプテスマと異言の賜物が与えられますように

  3. 比嘉 より:

    いつも勉強になります。
    異言に関して、私も「朝の9時」は2017年に大きな影響を受けました。その本を数時間ですべて読み切ってしまうほどに入り込んでしまいました。
    確かにこの本をエホバの証人が読むことができれば、「聖霊の働き」が一般の教会にもあることを知る大きなきっかけになるだろうなと思います。
    エホバの証人は、「そこに聖霊があるかどうか」を教えられていますし大切にしている人々ですから。
    私に異言が与えられたのは翌年2018年でした。
    私の場合は安産でしたが、求めるまでに1年近くを要しました。
    というのも、求めて与えられなかったら嫌だなという思いがどこかにあったからです。
    しかし、ペンテコステ派の教会に通い始めてその月にすぐに異言を求めてみるように勧められました。その勧めに応じた結果、その日のうちに与えられました。
    神様の恵みにただただ感謝です。

    また、異言を与えられてからの様々な体験が同じようにリンクします。
    動画もすべて拝見しました。アーメンです。
    神様との関係を阻害するルーティーンがあればそれを取り除くこと、それは私も最近強く感じ実行に移すようにしています。
    人間は習慣の奴隷と言われていますから、何を習慣にするかは大切です。
    また、独身でありながらも思考と思いの領域においてもいかに清さを保つことができるかについてもアーメンです。
    独身者は性的な領域においては常に断食状態ですから、そこを神様との関係にシフトできればすべてのクリスチャンが変わるというのも、本当にその通りだと思います。
    その領域に至るために、自分の力ではなく、異言によって神の力が与えられ、聖霊に満たされることによって達成できるものであるというのも、大きな恵みであり慰めです。
    自分の欲、欲するものを横において神様に目を向けるために異言で祈る、聖書を読む。
    そのためにも、時には断食が大切であるというのもアーメンです。
    「聖霊の力」によって変われる喜びに感謝です。

    私の場合は、対人関係において自分の要求を押し通さないという意味での断食中に大きな転機がいくつもあった気がします。
    異言が与えられた時もそうです。
    自分ではこうしたい。ああしたい。という思いとの葛藤があり、したいことと真逆に進んでいるように思えるときに、神様と隣人のためを最優先した結果として神様の恵みが大いに降り注ぐことがあります。
    その段階をいくつも乗り越えるうちに、思考の中に訪れる肉の欲にも勝利していくことができるようになったのだと思います。
    いつの間にかお酒も飲まなくなりました。飲んだらダメという禁欲主義ではないため、今でも飲もうと思えば飲めますが、飲むよりも聖霊に酔っていたほうがはるかに素晴らしいですね。

    その意味において、自分に死ぬことができたのだと思います。
    それさえも神様の恵みであったことに感謝しています。

    • true-ark より:

      いつも素晴らしいコメントをいただきありがとうございます!同じ元エホバの証人クリスチャンとして、共感できることが多いのは嬉しい限りですが、比嘉さんとは辿ってきた経緯や現在の聖書理解も共通点が多く、神の導きを感じます。

      「私の場合は、対人関係において自分の要求を押し通さないという意味での断食中に大きな転機がいくつもあった気がします。」
      この部分は興味深いですね、対人関係で自分の要求を通さないというのは、かなりへりくだりが求められる領域ですが、心を定めればそれも可能であり、神はそこに大きな祝福を注がれることを実感しました。ハレルヤ!

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