聖書を信仰の土台とする③ 聖書の読み方
聖霊の導きを求め、心を開いて読む
聖書の読み方として、最初に抑えておきたいも重要な原則は、「聖霊の導きを求め、心を開いて読む」です。
聖書は全て、神の霊感によって書かれました。したがって、その書物を神が意図した通りに霊的に理解するためには、聖霊の導きが不可欠であることは言うまでもありません。そして、私たちが神に心を開き、疑いからではなく信仰的に聖書を読む時に、そこに聖霊が働き、聖書のことばを「生ける神のことば」として受け取ることができます。
たとえ聖書に「イエス・キリストは主である」と書かれていても、あなたがその言葉を聖霊の導きによって心を開いて読まなければ、その霊的な意味を理解し、「イエスは主です」と告白するようにはなりません。
“ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。”第一コリント12章3節
神のことばを心で知り、イエスを主と信じて歩むためには、聖霊の助けが不可欠なのです。
字義通りに理解する
次に、書かれている言葉を「字義どおりに解釈し、理解する」ことが大切です。神は、人間が理解できない言葉で私たちに啓示を与えたのではありまえん。当時の人間が理解できるヘブル語やギリシア語によって啓示を与えることを選ばれたのです。そして、それらの言語は今日、それぞれの国や地域の言語に翻訳されて出版されています。ですから、聖書のことばと神の御心は、私たちが普通に読んで理解できる文章で今目の前にあるのです。
「神は世を深く愛し、ご自分の独り子を与え」と書かれているならば、それはその通りの意味です。神は、ご自身の独り子イエスをあなたに捧げるほどに、あなたを深く愛しています。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、・・・病人に手を置けば癒やされます。」(マルコ16:17~18)と書かれているなら、その通りの意味です。主イエスは、全ての信者に対して異言の恵みと、悪霊を制して病人を癒す力を与え、全世界の宣教に送り出されたのです。
実は、聖書全体を字義通りに読み、その通りに心で理解するのは案外簡単ではありません。その理由は、私たちの経験や知識、受けてきた教育や神学などが、字義通りに理解することを邪魔するからです。聖霊の助けに依り頼み、信仰的に聖書と向き合うことを通してのみ、聖書全体を字義通りに理解することができるのです。
文脈に沿って理解する
聖書を解釈し理解しようとする時に、文脈に沿って読むことは大切です。私たちの普段の会話の中でも、文脈を考慮せず、相手の言葉の特定の部分だけを抜き取ったために誤解が生じる、という経験が無いでしょうか?
例えば、「愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。」(第一コリント 13章8節)という聖句を読んで、「異言は止む、とあるのだから、もう現代には存在しない」と理解する方々がいます。
しかし続く文章を読んでいくと、パウロはどの時点でその賜物が止むのかを説明しており、それは次のようになっています。
「完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。・・今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(第一コリント 13章10~12節)
このように文脈を捉えると、異言などの賜物は「完全なものが現れたら」止むことがわかり、それは信者が主イエスと顔と顔を合わせて完全に知り合う「再臨」の時であることがわかります。このように、文脈を考慮しないことによって神の意図を誤解してしまう、ということがあるのです[1]。
ユダヤ人的な視点で読む
文化的・地理的・時間的な隔たりの存在
聖書は、日本から遠く離れた中近東で、3500年前~2000年前にユダヤ人によって書かれた書物です。それゆえ、時間的にも、文化的にも、地理的にも大きな隔たりがあるので、当然のことながら時代背景を知っていた方がより深く理解できる箇所や、普通に読んでも理解できない箇所がたくさん出てきます。
日本で二千年前と言ったら「弥生時代」です。もしもあなたが、その時代に書かれた書物を読むことができるとしたら、全てを正しく理解できると思いますか?きっと思わないでしょう。弥生時代と現代の日本人との間には、あまりにも大きな文化的・時間的隔たりがあるからです。
このような理由から、聖書を読む時には、現代人の世界観に合わせて読むのではなく、聖書を書いた当時のユダヤ人の世界観に合わせて読むことが必要です。読んでいて意味が分かりづらいと思ったら、まずは祈って導きを求め、当時の時代背景を調べてみるのも良いでしょう。
ダビデの子とは
一例として、次の聖書箇所を見てみましょう。
“そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。 23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」24これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」”マタイ12章22~24節
イエスが口を聞けなくする悪霊を追い出した時、群衆は「ダビデの子なのではないだろうか」と言っていますが、当時のユダヤの背景を理解していなければ、「ダビデの子」という言葉がよくわからず、単に「ダビデの子孫」という意味かと解釈してしまうかもしれません。
しかし当時のユダヤ人にとって、「ダビデの子」とはメシア(救い主)の称号だったのです。ではなぜ群衆がこの状況でイエスが「メシアではないか」と思い始めたかというと、その理由はパリサイ人たちが、「もしも口を聞けなくする悪霊を追い出せる人が現れたら、その人がメシアだ」と群衆に教えていたからです[2]。つまりパリサイ人たちは、自分たちが群衆に教えてきたことを否定する、という自己矛盾を露呈してしまっているのです。
このようにユダヤ的背景を理解した上でこの箇所を読むと、当時の世界観に合わせて解釈することができると共に、聖書をより深く味わうことができるのです。
聖書を読みましょう
聖書を読むことを日々の日課にしましょう。なぜなら、神のことばはあなたの霊の命の糧であり、あなたは神の口から出る全ての言葉によって生きるからです。
“イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」”マタイ4章4節
あなたが聖霊の導きを求め、心を開いて聖書を読む時に、神のことばはあなたの内に生きて働くようになります。
“こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。”第一テサロニケ 2章13節
“神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。”ヘブル 4章12節
聖書のことばと神の教えを日々思いめぐらして下さい。そうすれば、神の力があなたの内に働き、あなたはその歩む全ての道において、主の御心に適った成功を収めるようになります。
“幸いなことよ、悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。2主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。3 その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。”詩編 1篇1~3節
そして、神のことばをただ聞くだけでなく、そのことばと教えによって歩む者となって下さい。そうすれば、あなたは幸いな者となり、神から祝福されます。
“しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。”ヤコブ1章25節
脚注
[1] 異言や預言が現代にも存在するのか、ということはプロテスタントの中で議論のあるテーマです。福音派と聖霊派は双方とも聖書を神のことばと認めていますが、このテーマについては理解が分かれます。福音派の教会の中には、異言や預言は現代には存在しないと考える人も一定数います。また、「異言はあるが、預言はない」とする人もいます。もっともそれらの立場の人は、ここで挙げた第一コリント13章8節だけを根拠にしているわけではないことも多々あります。聖霊派の多くは、これらの賜物が現代にも変わらず存在することを認めています。
[2] パリサイ人の中には、悪霊追い出しをする人たちが当時いました。彼らのやり方は、まず悪霊の名前を聞き出し、その名前を特定して呼びかけて追い出す、というものでした。しかしこのやり方では、悪霊に憑かれた人が喋れる必要があったため、「口をきけなくする悪霊」を追い出すことはできませんでした。このような理由から、パリサイ人たちは「口をきけなくする悪霊を追い出せる人が現れたら、その人がメシアに違いない」と教えていたのです。
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