ウィリアム・ウッド氏の意見書に対する TRUE ARKの返答|病気や悪霊への命令は聖書的か?

ウィリアム・ウッド氏の意見書に対する TRUE ARKの返答|病気や悪霊への命令は聖書的か?

記事に対するご返答をいただきありがとうございます。ウィリアム・ウッド先生ご自身が、かつて20年間もの間、支配神学の実践者であった、という点には驚いています。ご指摘の通り、癒しを信じて実践するクリスチャンは、ほぼ例外なく、自分が祈った(命令した)人がすべて、必ずしも瞬間的(奇跡的)に癒される訳ではないという事実を見ることになりますが、その経験を聖書からどのように考えるかが、実践者にとって、とても重要なテーマであると思います。

ご返答を読んで、ウッド先生がかつて実践していた支配神学と、癒しに関する私の理解との間に、幾つかの点で大きな考え方の違いがあることがわかりました。そして、今回のご返答で指摘されていることの中で、私が理解している癒しの教えには適用されない考えも多々ありましたので、まずはその点を聖書からお答えさせていただければと思います。

癒しが起きない場合、病気の人の信仰を問題にするべきなのか

確かに聖書には、癒される側の信仰によって癒されている事例が複数ありますが、祈る側(命じる側)の信仰によって癒している事例も多くあります。例えば、使徒3章に登場する足なえの人は、ペテロの信仰によって癒されました。彼は、金銀が欲しかったのであり、奇跡によって癒されることは全く想定していなかったからです。マルコ16:17では、「病人に手を置けば癒される」とあり、文脈上、癒す側の信仰が重要であり、病気の人の信仰は問題にされていないことがわかります。

参考までに、前の記事でもご紹介したカーリー・ブレイク氏やジョン・G・レイク氏が掲げる癒しの重要な特徴の一つは、相手の信仰に頼らないことです。もしも、彼らが相手の信仰に頼る祈りをしていたら、あのような安定的な癒しが起こることは決して無かったことでしょう。

癒しの祈りをする時に、祈られる側にも信仰があるのはもちろん良いことですが、上記の点を考慮するならば、癒されない場合に、相手の信仰を問題視する必要はないと言えます。むしろ、相手の信仰にも頼る祈りをするならば、それは「もしも相手に信仰が無ければ癒されない」と信じていることになるので、信仰にブレーキがかかり、起こるはずの癒しも起こらなくなると思います。

なぜならイエスは、数々の場面において、私たちがどのように信じるかが、結果に大きな影響を及ぼすという原則を示しているからです。(マタイ8:3、マタイ9:21、マルコ11:23)

命令したら、その場で完全に癒される必要があるのか

確かに、福音書と使徒の働きでは、ほとんどの場合、命じることにより、その場で瞬時に癒しが起きています。しかし、癒しを行うことについて、新約聖書が弟子たちに与えている命令・教えにおいては、祈ったり命じたりした場合、その場で瞬時に完全に癒しが起きるとまでは保証されていません。ただ言われていることは、病人に手を置けば癒される(マルコ16:17)、信仰による祈りは病んでいる人を救います(ヤコブ5:15)等です。

ですから、瞬時に癒されなくても、何回かの祈りや命令を通し、あるいは中長期的な命令を通し、癒しが実現していくことも想定できるはずです。ジョンGレイク氏の場合も、複数回の命令を通し、癒しが実現していくことがよくあったそうです。(彼のヒーリング・ルームでは、一カ月間の祈り通し、癒されないケースはほとんどありませんでした)

このような点を考慮した上で、「神は確かに、クリスチャンに癒しをする権威と力を与えた。しかし、いつ、どのようなタイミングで癒すかについての最終的な権限は、権威の源である神にある」と私は考えています。

ですから、私が病気の人のために癒しの祈りや命令をする場合も、必要に応じて上記の考えを伝えるので、たとえその場で瞬時に癒されなくても、相手の人が傷ついたりすることはありません。私の周りにも、中々癒されない病気を持つ人がいますが、本人に確認をしたところ、傷ついてはおらず、自分なりに、神が真実で善いお方であることを信頼しつつ、癒される時を待っていることがわかりました。

弟子たちは聖霊に促された時だけ命令したのか

また、ペテロやヨハネも、神の霊感を受けて新約聖書を書いている人物なので、私たちよりも霊的にレベルの高い領域に達していたと言えるのではないでしょうか。だからこそ、美しの門にすわっていた男に対して、イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言えたのではないでしょうか。つまり、彼らは、この人が癒されることが神のみこころだと聖霊に示されて、そのように命令をした、ということです。ついでに述べておきますが、キリストは確かに弟子たちに霊的権威を与えましたが、「治るように、病人に命令しなさい」とおっしゃったことは一度もありません。

このウッド先生の考えは、「病気に命じるべきではない」という確固たる主張の土台となっていることがわかりましたので、次にこの点を丁寧に考えていきたいと思います。

ウッド先生の考えが正しければ、弟子たちは通常、病気の人や悪霊を前にして、「主よ、この人から悪魔を追い出してください。この人を病気から解放してください」と神にお願いしていたことになりますが、その可能性は極めて低いと思います。

第一の理由は、そのような言葉が聖書に記録されておらず、解放や癒しをする時の彼らのセリフで記録されているものはすべて、命令によるものだからです。

第二の理由は、弟子たちが「権威を与えられた」という事実にあります。彼らが与えられた権威(ギリシア語:エクソーシア)は、文字通り権威・支配権を意味する言葉ですので、その権威を委託された弟子たちは、そもそも悪霊の追い出しや癒しを神にお願いする必要がありませんでした。むしろ、権威を与えられた者として、その権威を用いる「特権」と「責任」が彼らにはありました。

例えば、一般の人々が犯罪者を目の前にしたら、逮捕してもらえるよう、警察に電話をして「お願い」をしなければなりません。なぜなら、自分の手で逮捕する権威がないからです。しかし、警察官が犯罪者を見つけるならば、ほかの誰かに「お願い」はしません。すでに国から与えられた権威を用いて、「動くな!」と命令し、その場で逮捕する必要があります。

これと全く同じようなことが、権威を与えられた弟子たちにも当てはまるのではないでしょうか。つまり、悪霊や病に対する「命令」は、「権威の委託」という事実に対し、必然的に伴う行為なのです。

申命記18章の警告は癒やしの失敗にも適用されるのか

申命記18章の偽預言者に対する警告を、癒しの失敗に適用されたのは驚きでした。この警告の意図は、神が命じていないことを勝手に語る偽預言者に対するものですが、神が命じてもいないことを勝手に語るわけですから、問題があるのは当然で、実現する保証もありません。

一方、イエスが弟子たちに命じたのは、「出て行って、福音を語り、権威を持って悪霊を追い出し、病人を癒しなさい」です。ですから、出て行って福音を語り、イエスの名によって悪魔に「去れ!」と命じ、 病気の人に「癒されよ!」と言う人は、神が命じなかったことを勝手に行っているのではなく、神が命じた仕事を忠実に行っているのであり、申命記18章の偽預言者の事例とは根本的に状況が異なっていると思います。

では、命じても、その場でその通りの結果が出なかった場合、申命記の警告ほどの深刻さで、弟子たちは断罪されるべきなのでしょうか?その答えは福音書にあります。マタイ17章には、弟子たちがてんかんをもたらす悪霊を追い出せなかった記録がありますが、「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか?」という弟子たちの質問に対するイエスの答えは、「偽預言者よ、なぜわたしの名によって語ったことが実現しなかったのか」だったでしょうか?もしそうであったなら、弟子たちはそれ以降、権威を用いることに対し、恐れで委縮してしまっていたことでしょう。しかし、主の答えは次のようなものでした。

「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」(マタイ17:20)

イエスが問題にしたのは、弟子たちが命じていないことを勝手に行ったことではなく、命じた仕事に対する信仰が不足していたことでした。そして、「からし種ほどの信仰があるなら、・・あなたがたにできないことは何もありません。」ということによって、弟子たちを断罪するのではなく、むしろより信仰を持って行動できるよう励ましたのです。今でも主は、この命令を実行しようとする弟子たちに対し、同じような態度で励ましておられる私は信じます。なぜなら、イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがないからです。(へブル13:8)

癒しは常に神の御心なのか

神は癒し主

病気の癒しは常に神の御心なのか、あるいは、時には癒さないことが御心なのか、この問題について、まず聖書が一貫して教えている聖句を確認します。

「もし、・・その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」(出エジプト15:26)

「主はあなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病を癒やし」(詩編103:3)

「わたしの名によって・・・病人に手を置けば癒されます。」(マルコ16:17)

「信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:15)

他にも複数の聖句がありますが、旧約から新約時代を通し、神は一貫して、ご自身が「癒やす者」であることを明白に教えていますので、クリスチャンは、癒しが神の御心であることを基本的な真理として受け取ることができると思います。

なお、出エジプト15章、ヤコブ5章の文脈を考慮するならば、病気の信者が神からの癒しを期待する場合、罪を悔い改めている必要があることが示されていますが、悔い改めは、神との正しい関係を保つ上で常に最優先されるものであり、それは身体的な癒しよりも重要です。そして、信者が神との正しい関係を保っているならば、癒しを妨げるべき理由はないことをこれらの聖句は教えています。(ヨハネ15:7も参照)

なお、新約時代においては、祈り手の側の権威と信仰に基づく癒しも可能であり、この法則に基づいて癒しをする場合は、病人の側の霊的状態は基本的に問題とされません[1]。福音書や使徒の働きで、イエスや弟子たちが行った癒しのほとんどは、この法則に基づく癒しでした。

パウロの「肉体のとげ」とは?

第二コリント12章で言及されている「肉体のとげ」は、病気が癒されない根拠として、実によく取り上げられる聖句ですが、はっきりと言えることは、そのとげが具体的に何であったかについて、聖書は沈黙している、ということです。ただし、(1)前後の文脈において、パウロの経験した苦しみのリストで「病気」が一度も取り上げられていないこと、(2)聖書の中で「とげ」という言葉が比喩的に用いられる場合、例外なく神の民への敵対者を意味すること、などを考慮すれば、肉体のとげの正体は、パウロを常に悩ます敵対者であった可能性が極めて高いと言えます[2]

そしてその前提で考えると、このケースにおいて、パウロがなぜサタンの使いに命じるのではなく、神にお願いをしたのかが見えてきます。つまり、人間の敵対者による迫害や困難は、霊的権威によって封じ込めれるものではなく、むしろクリスチャンが負うべき十字架として、神が許容しているものだからです[3]

いずれにしても、とげが病気であったと確定する十分な聖書的根拠は存在しないので、このとげを理由に、癒しが起きないことをすぐに「御心だ」と受け入れる必要はないと思います。

もっとも、トロピモやエパフロデトの場合のように、神がある人の病気を中長期的に「許容」することがありますが、それは、その人が病気であることを、神が積極的に望んでいることは意味しないと思います。きっと、その病気の期間を通して、当人が学ぶべき教訓があったのでしょう。

神学の正しさをよりも大切なこと

「病気へ命令するべきか」「全ての病気や癒されるべきか」等の問題について、クリスチャンの間で、ある程度の見解の相違があるのは仕方のないことですが、それによって分裂が生じることは、避けるべきだと思います。なぜなら、これらの議論において、どちらの立場を取るとしても、それによって福音の真理が脅かされたり、人々が滅びをもたらす異端に引き込まれたりするわけでもないからです[4]

残念ながら、癒しに関するこの手の議論をめぐり、クリスチャンの間で分裂が起こるのを私は目の当たりにし、体験してきました。その中には、ウッド先生の本を読んで影響を受けた人も含まれています。

私としては、病気の癒しや権威の用い方について、今の自分の立場が聖書的であることを信じていますが、それ以上に、異なる考えを持つ仲間に対しても、相手への理解を示し、互いに一致を保つことの方がより重要であると理解しています。そしてそれこそが、神がキリストの体に求めておられることだと私は信じています。(エペソ4:3)

結論

これまでに書いてきた内容を考慮し、癒しについての私の考えをまとめさせていただきます。

クリスチャンは、イエスの名と、その名に対する信仰に基づいて癒しを行い、また受け取ることができます。そして、そのような信仰によって歩んだ人たちが、実際にほとんどその通りの結果を得てきたことを私は知っています。(この点については、カーリー・ブレイク氏の他にも、リリアン・B・ヨーマン氏や[5]、ゴードン・リンゼイ氏[6]の証も参考になります。)

一方、祈ったり命じたりして、その言葉通りに完全に癒しが100%働いた人物は、歴史を通しても、主イエスご自身だけだったことでしょう。癒しを信じて実践する信者が、祈っても中々その通りにならないケースにおいては、その原因がはっきりとわからないこともあるかもしれませんが、その理由について、私の憶測であれこれ断定することは控えたいと思います。個々の状況における確かな理由を知っているのは神だけだからです。

病気の癒しは確かに神の御心ですが、一方で、地上生涯で受け取るどのような身体的な癒しも、あくまで部分的なものであることも私は理解しています。なぜなら、神の計画の中で、体の贖いが完全に実現するのは、地上生涯においてではなく、携挙の際、栄光の体を与えられる時だからです。(第一コリント15:51~58)

それまでの間、私たちがある程度、体質や老化によって生じる弱さや障害と向き合うとしても、それは仕方のないことでしょう。むしろ、神を愛する歩みを通して与えられる魂の平安を保つことの方が、身体的な癒しや健康よりも遥かに重要であると私は信じています。私たちは健康的な体によってではなく、信仰によって与えられる魂の聖化を通して、永遠の命に導かれるからです。

最後に

最後に、ウッド先生ご自身も認めておられるように、神は私たちに、悪魔と病気に対する権威をお与えになりましたが、「命令」することを完全に止めてしまうのであれば、それは権威を信じていることにはなりません。

今回の返答の内容をきっかけに、ウッド先生が再び、神から委ねられた権威を行使するようになるなら、それがウッド先生のミニストリーへの祝福につながり、より多くの人々を悪魔の束縛から解放するものとなっていくことを、私は信じています。

脚注

[1] もっとも、癒しによって神の恵みを受けた人は、その恵みに応答し、罪があるなら悔い改めるべきです。もしそうしないなら、神の恵みがその人から取り去られ、再び病気になることもあるでしょう。

[2] 聖書を正しく解釈するための法則を規定する「解釈学」という学問がありますが、「文脈を重視する」「聖書が聖書を解釈する」「明瞭な聖句は不明瞭な聖句より優先される」等の規則が、聖書解釈において重要であることを、私は神学の講義で学んできました。(ハーベスト聖書塾、神学講座「解釈学」)
今回の「肉体のとげ」や、癒しに教えに関する私の考えは、この解釈学の法則を適用して得たものとなっています。

[3] なお、悪魔に対しては、権威によって命じる、というのがクリスチャンの基本的なスタンスであるべきだと考えられますが、時には「肉体のとげ」で苦しんだパウロのように、へりくだって神に助けを願い求めることもあって良いと思います。

[4] もっとも、癒しを実践するクリスチャンは、自分の行動が、神の栄光を傷つけることがないよう配慮する必要はあるでしょう。

[5] 『いやしのみことば』第五章(エターナル・ライフ・ミニストリーズ)

[6] 『神のいやし Q&A』第一部(エターナル・ライフ・ミニストリーズ)

あわせて読みたい