人間を超越した神の真理は絶対化できない?|宗教的寛容と絶対化の問題③


イエスの教え|山上の垂訓

人間には神の真理を理解しきることはできない

まず、宗教の一般的な定義とは次のようなものだ。

「神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み、古代から現代に至るまで、世界各地にさまざまな形態のものがみられる。」(デジタル大辞泉)

ここで、宗教が神や仏との関わりを指す以上、それが人間の理解を大きく越えており、人間の限られた知識や知恵で知り尽くすことは不可能だ。

だから、そのような点を考慮して、「正しい真理は誰にもわからないのだから、宗教に優劣をつけたり、絶対化したりするべきではない」と考えることは、決して間違いではないが、盲点はある。

それは、この考えが適用されるのは、「哲学的宗教」のみに対してであり、「啓示宗教」には当てはまらない、ということだ。

哲学的(合理主義)宗教と、啓示宗教の違い

哲学の定義とは、簡単に表せば「世界・人生などの根本原理を追求する学問」(デジタル大辞泉)となる。この定義を踏まえ、ここでの哲学的宗教という言葉は、「人間の能力によって、神や仏に関わる真理を追求する宗教」を指して用いることにする。(なお、合理主義的な宗教もこの部類に入るだろう)

一方、啓示宗教とは、「人間をこえた存在者からの教えに基礎をおく宗教」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)であり、ユダヤ教キリスト教イスラム教などの一神教は、これに含まれる。

神仏に関わる真理が人間の理解を越えているのなら、人間の理解力という制約を持つ、哲学的・合理主義的宗教の中に十分な真理が無いことは明白だ。しかし、もしも啓示宗教のように、神の側から、真理が何であるかを啓示してくれるのなら、人間の側でも、それを知り得ることは、十分に可能となる。

山の頂上にある真理のたとえ

大事な点なので、たとえでも考えてみよう。ある山の頂上に、神の真理という宝が置いてある。哲学的宗教の場合は、その宝を見つけるために、一歩一歩、その山を登っていかなければならないが、その山の頂上の高さが人間の限界を遥かに越えていれば、いつまでもその宝を掴むことはできない。

しかし、もしも、その頂上にいる神自身が、自ら降りてきて、人間にその宝(真理)の内容を教えてくれれば、私たちは真理という宝が何であるかを知ることが可能なのだ。

では、キリスト教が主張するように、聖書が真の神からの啓示であるとする、どんな根拠があるのだろうか?

聖書が真の神の啓示である証拠:預言の成就

実は、「神や天使」と名乗る霊的な存在から、「これが真理」だと啓示されて出来た宗教は、世界中にかなりたくさんある。

しかし、それらの宗教の教えを比較すると、相違点が目立ち、一貫していないことが明らかになってくる。このことから、啓示宗教だからと言って、全てを信じて良いわけではなく、実際には多くの場合、不真実な啓示の教えが紛れ込んでいることがわかるだろう。

では、真実の啓示と、偽りの啓示を見分けるためには、どんな点を考えれば良いのだろうか?

オレオレ詐欺での対処方法を参考にする

オレオレ詐欺の犯人は、「オレが息子」だと偽って電話の相手を騙すが、啓示宗教の霊的な犯人の場合は、「オレが真理だ」と言って、啓示を受ける人々を騙す。つまり、世界中の啓示宗教の間で起こっていることは、実際には「霊的オレオレ詐欺」なのだ。

もしも、オレオレ詐欺の電話がかかってきた場合、相手の手口を見破る最も良い方法は、「息子にしかわからない情報」を聞き出すことだ。同じように、霊的オレオレ詐欺における最善の対処方法も、「真の神にしかわからない情報」を聞き出すこととなる。

真の神でなければ、遠い未来を完全に預言することはできない

「21あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。・・先にあった事は何であったのかを告げよ。・・後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。」(イザヤ41:21-23

「9 遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。」(イザヤ46:9-10

引用した箇所は、神ご自身が語られた言葉として聖書に記されているが、その内容によれば、真の神である証拠は、「遠い未来に起こる出来事を昔から告げる預言の能力」だとされている。

確かに、遠い未来に関わる出来事を完全に予告したり宣言したりするためには、完全な予知能力と、預言の成就のために物事を完全に支配する全知全能の力が必要とされる。

そして、このテストに合格できる啓示、つまり人類の長い歴史を通して、完全に成就してきた預言が収められている啓示の書物は、聖書だけなのだ。

以上の理由から、聖書の教えは、真の神から啓示された真理として、唯一のその信頼性が保証されている書物なのだ。

※預言の成就については、当サイトに色々な記事を載せているので、是非読んでみていただきたい。また、数ある預言の中でも、特にイエス・キリストに関する預言の成就は、聖書の中で極めて重要な意味を持っている。

 

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