バプテスマの力と新しい人―あなたは罪から解放されている|ローマ6章に基づくキリストとの一体化の真理

バプテスマの力と新しい人―あなたは罪から解放されている|

ローマ6章によれば、イエスの名によってバプテスマを受けた人は「新しい人」であり、「罪から解放されて」います。罪はもう、その新しい人を支配しません。

あなたはすでにイエスの名によってバプテスマを受けましたか?受けたのであれば、あなたの人生に「罪からの解放」はどれほど現れてきましたか?ここが重要な問題です。なぜなら、実に多くのクリスチャンがこの真理を十分に受け取れていないために、大なり小なり罪から自由にされた生活を送れていないからです。

では、聖書は間違っているのでしょうか?決してそんなことはありません。変えなければならないのは聖書のことばではなく、私たちの方なのです。では、私たちの何を変えればよいのでしょうか?パウロがこの手紙で述べた真理をどのように受け止めれば、私たちは実際的に罪から解放されていくのでしょうか?

約二カ月前、神は私にこの答えを与えて下さいました。それ以来、私はこの真理の意味を理解し、本当に変えられました。本記事は、この実体験に基づく証のメッセージです。ぜひ最後まで読み、この答えと罪からの解放を受け取って下さい。※同様の内容を語ったメッセージ動画も合わせてご紹介します。

バプテスマの真理とその力とは

まず、ローマ6章でどんな真理が語られているのかを共に確認していきましょう。パウロは、洗礼を受けた信者が罪の中に生きることはあり得ない、ということを読者に理解させるために、バプテスマについての真理を明らかにしています。

バプテスマを通して、私たちの「古い人」はキリストと共に十字架につけられ葬られます。その古い人とは、神から離れて罪の中を歩んできた私たちのことであり、その古い人はバプテスマを通して水に沈められ、葬られるのです。ちょうど神が、かつて罪に満ちた世界を大洪水によって水に沈めたのと同様です。

そして水から上がる時、私たちはキリストの復活と共によみがえり、新しい人として新しい命によみがえるのです。こうして私たちは、十字架と埋葬を通して復活したキリストと、バプテスマを通して一体化することになるのです、ハレルヤ![1]言い換えればバプテスマとは、十字架と復活を通して現わされたキリストの福音の力を、私たちの人生に結合させるものなのです。

ですから、バプテスマを受けた人の霊は、復活のキリストと一体化した「新しい人」であって、罪の支配にはなく、罪から完全に自由にされています。なぜならその人の本質は根本的に造り変えられて、「復活のキリストと同じように」されたからです。

キリストが死に支配されないのであれば、あなたも支配されません。キリストが新しいいのちに満たされているのであれば、あなたもあたらしい命に満たされています。もはやあなたの内に生きているのは、葬られた古い人ではなくキリストなのです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」(ガラテア2:20)

バプテスマと新しい人の真理を体験した証し

二カ月ほど前、私は神の前で、自分の肉の弱さを自覚するために自分の肉に目を向けました。自分の中で依然として度々葛藤をもたらす「古い人」に目を向け、古い人が願っていることに目を向けました。すると、自分がその古い人と肉の思いにどんどん支配されていくことに気付きました。「これでは駄目だ!」と私は思いました。それで私は、次に逆のことにトライしてみようと思いました。古い人に注目して古い性質に支配されたということは、その逆をやることを通して逆のことが起こるだろうと考えたのです。

それで、まずローマ6章を読みました。なぜかというと、実はローマ6章に「罪はもはやあなたを支配しない」と書いてあるのを知っていたからです。TLRのトーベンさんが、「自分はこの聖句を読み、啓示を受け、罪がもはや自分を支配しない、ということを理解しました。それ以来、罪からの解放を経験しました」と証ししていたのを覚えていたのです。それでローマ6章を改めて読み、自分がキリストと共によみがえり、新しい人となっていることを確認した上で、今度はその新しい人に目を向け始めました。自分の内に生きているキリスト、そのキリストと一つにされた霊に注目し、その霊の願うことに思いを傾けました。

すると、私の内側が、だんだんとキリストの思いに満たされていくのがわかりました。神の愛に満たされていくのがわかりました。自分の本当の姿が、本質が現れてくるのがわかりました。「これだ!」と思いました。肉の思いは消滅し、霊の思いが私を満たし始めたのです。そして、その思いこそが私の本当の姿だったと気づいたのです。

神に対しては生きている者だと認めなさい

もう何年も前のことですが、私はかつての自分の告白を思い出しました。神を信じ始めたころ、心の中に神の愛が注がれるようになって、私の人格が徐々に変えられていきました。そしてある朝、私は起きるとすぐに、次のように大声で言いました。「おれは、本当はとても良い人だったんだ!」

ハレルヤ!その告白は真実でした。なぜなら神が、私の内に新しい創造を始めておられたからです。しかし、私は自分で告白したその告白を、いつでも変わらない真理として十分に受け取らずに過ごしてきたのです。だから、罪に対する弱さを感じたり、その罪に負けたりする度に、それがその時の自分のありのままの姿、正直な姿だと受け入れてしまってきたのです。

もしも私たちが救われる前であれば、実際にそれは私たちの本当の姿です。なぜなら、救われる前の私たちの霊は死んでいたのであり、神のいのちから離れていたからです。しかし、キリストを信じて新生した全ての人にとっては、たとえ一時罪に陥ることがあっても、それは「本当の姿」ではないのです。それを「本当の姿」だと認めてはならないのです。

ローマ6章の中で、特に神が私に注目させた箇所は11節でした。

「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」

イエスと一つになった全ての神の子どもにとっては、この言葉はいつでも真理です。私たちはいつでも、自分が罪に対しては「死んだ者」であり、神に対して生きている者だと「認めなければ」ならないのです。しかし私は、罪を犯す度に「これが今の自分のありのままの姿」だと認めることによって、この真理から反れていたことに気付いたのです。

もっとも私はここで「自分の内側の罪を否定し、悔い改める必要は無い」とは言いたいわけではありません。私たちに肉の思いが生じたり、罪を犯したりするならば、それは神の前に持っていき、悔い改める必要があります。しかし、そのような弱さや罪に悩まされる自分が「自分の本質、本当の姿」だと認めるならば、それは真理ではないのです。なぜならそれを認めることによって、あなたは敗北したはずの「死の力」が、依然として自分に対して力を持っていると認めることになるからです。

しかし、聖書は言っています。「死の力」は、すでにキリストの死を通して滅ぼされたのです。ですから、私たちが人生において死の力に勝利するためには、その力を滅ぼしたキリストのいのちが、すでに自分の内に生きておられ、自分の本質となっておられることを「認める」必要があるのです。

「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、15死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」(へブル2:14~15)

キリストを一心に見つめることの大切さ

罪に支配されなくなる

この記事を書いている時点で、私がこの真理に気付いてから二カ月近くが経過していますが、この真理を受け取ることの重要性に驚かされ続けています。なぜならこの間、私は罪に支配されることが無くなったからです。それは言動や行動の領域だけでなく、日常生活の思いの領域にも及んでいます。

誘惑が全く無いわけではありません。しかしそのような誘惑が来ても、肉の思いには耳を傾けず、すぐに自分の本質と新生した霊に意識を向け、「肉の思いは私の本質ではない。本当の姿ではない。」と認めることにより、その誘惑を退けることができるようになったのです。自分の本質がキリストの似姿に変えられた以上、その本質に反する古い人に注目するのが愚かなことであることに、より深いレベルで同意することができるようになったのです。

“信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。”へブル12章2節

私たちの重要な目標は、イエスから目を離さないことです。真理から目を離さないことです。イエスから目を離すべきでないならば、イエスがあの十字架の贖いを通して成し遂げて下さった御業からも目を離すべきではありません。あの十字架と復活を通し、彼は私たちを、彼の似姿へとすでに再創造して下さったのです。

だから私たちは、自分自身を見る時に、再創造された新しい人から目を離すべきではないのです。たとえ罪を犯すとしても、弱さを感じるとしても、その新しい人に目を向け続けることによって、その新しい創造を成し遂げて下さったイエスに目を向けることができるのです。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

神の愛が流れやすくなる

私がこの真理を実践し始めてから生じているもう一つの重要な変化は、前よりも神の愛が内側に流れるようになったことです。前よりも様々な場面において、神の愛の視点で物事を見れるようになってきたことです。

たとえば以前から私は、道端で体の障害を抱えながら歩いている人を見かける時に、祈りのためにその人に声をかけることがしばしばありました。しかし、この新しい人の真理に気付いて神の愛が前よりも流れるようになった時、声をかけることがもっと簡単になりました。それは、その人のために祈る信仰や使命感だけでなく、「心からの憐れみと愛」が流れるようになったからです。

しかし実際には、その愛と憐れみは、元々新生した私の霊の内にあったのです。なぜなら、バプテスマを通して、すでに私はキリストと一体となっていたからです。しかし、その真理に十分に同意せず、欺かれていた領域があったために、本来流れるはずであった神の愛が留められていたのです。

真理を実践する

この記事を読んで励ましを受けた方、「自分もこのバプテスマと新しい人の真理をもっと深く受け取りたい」と思った方は、まずローマ6章を丁寧に読み直してみることをお勧めします。

その上で、ローマ6章で啓示されている次の真理を、神への祈りの中で認めて下さい。

  • キリスト・イエスにあって、自分の古い人はすでに葬られていること
  • キリスト・イエスにあって、自分がキリストに似た「新しい人」に造り変えられたこと
  • 新しい人は、罪から解放されていること

そして、まずは1~3日を取り分けて「この期間は古い人には注目せずに、再創造された自分の霊―新しい人に注目する」と決めて過ごして下さい。そうすれば、神があなたに「新しい人」に注目する重要性を教えて下さるでしょう。

真実な神が、このバプテスマと新しい人の真理を信じ、その真理に生きようとする全ての人に豊かな恵みと祝福を与えて下さいますように。

脚注

[1] 物理的な体の復活はなお将来のことですが、霊的な新生と復活は、バプテスマを通してすでに起こっています。

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