幼い子供たちや胎児・知的障害者は、 死後に救われて天国へ行きますか?
聖書は、「救いは信仰による」と述べているが、胎児や幼い子供たち、知的に障害を持つ人々は、その信仰に必要とされる知性や意志を持たない。そのため、これらの人々がその状態で亡くなった場合、救いはどうなるのか、死後にどこへ行くのか?という疑問が生じる。
実は、聖書はこの問題について、あまり明白に説明してはいないが、その答えを示唆する聖句を見出すことはできる。また、救いに関する原則を適用して考えれば、間接的に、その答えを探ることもできる。そこで今回は、幼い子供たちや知的障害者の救いについて、聖書や関連する情報から、答えを示したい。
聖書が教える救いの原則
聖書は、最初の人間アダムに生じた罪が、全ての子孫に受け継がれたと説明している。つまり、全ての人は、例外なく生まれながらに罪人であり、神の裁きを受けるべき存在なのだ。(ローマ5:12)※このように、生まれながらに全ての人が受け継いでいる罪を「原罪」という
しかし、第二のアダムであるキリストの命が罪人のために捧げられたことにより、全ての人に罪の赦しが与えられた。(ローマ5:15~21、イザヤ53)
そして、キリストの身代わりの死によって与えられた赦しを受け取るために必要とされるのが、「キリストに対する信仰」であると聖書は教えている。(エペソ2:8)つまり、キリストが私たちの罪のために死に、葬られ、蘇られたということを理解し、そのキリストを信じる人に、罪の赦しと救いが与えられる、と聖書は教えているのだ。(第一コリント15:1~5)
以上の救いの原則を考慮すると、幼い子供たちや知的障害者については、次のようなことが言える。
(1)全ての人が罪人であるということは、それには当然幼い子どもたちや知的障害者たちも含まれる。(2)彼らには、キリストの死によってもたらされる罪の赦しを受ける機会も与えられている。(3)しかし、幼くして死んだ子供たちや知的障害者は、福音を聞いても、生前の段階で信じることが不可能だった。
したがって、これらの人々は、生前の段階で福音を聞いた場合に信じることも可能であった人々とは状況が全く異なっている。そして、もしも彼らが救われないとすれば、憐れみや公正といった神の重要な属性と矛盾することにもなるだろう。
むしろ、神の愛と憐れみに基づき、それらの人々にはキリストの贖いが自動的に適用され、死後に救われた、と考える方が、救いに関する原則及び、神の性質と調和するように思える。
なお、当サイトだけでなく、幼い子供たちの救いに関して、このような見方を支持するクリスチャンも決して少なくはない。
幼い子供の救いを示唆する聖句
ダビデの子どもが行った場所
ダビデとバテシバの間に最初にできた子どもの命は、その両親の罪のゆえに神によって取り去られたが、その子が息を引き取った時、ダビデは次のような言葉を語った。
「しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」(第二サムエル12:23)
「私はあの子のところに行くだろうが」と言う言葉から、亡くなった子供が死後に行く場所と、自分が死後に行く場所が同じである、とダビデは考えていたようだ。当然ながら、ダビデは自分が死後に地獄へ行くことは想定していない。ということは、幼い子供は死後救われて安らかな場所へ行く*[1]、というのが、ダビデの信仰だったのだ。
子供のようにならなければ天の御国に入れない
「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ)18:1~4)
ここでイエスは、弟子たちの「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」という質問に対して、「子どものように自分を低くする者」だと断言している。幼い子どもたちの多くが持っている純粋さや謙遜さは、天の御国に入るための、つまり救われるために必要とされる信仰と重要な関係がある、ということである。
では、キリストがこのように語られながら、実際には多くの子どもが救われていないとしたら、キリストは重要な真理において、矛盾したことを教えていることにならないだろうか?むしろ、このイエスの言葉からは、幼い子どもたちの多くは救われる、という基本的な原則を読み取ることができるだろう。
何歳までが子どもと見做されるのか
なお、何歳までが幼いと見做されるのか、という問題についてだが、それについては、聖書ははっきりとした答えを与えていない。ユダヤ的な文脈にしたがって考えれば、ユダヤ人の成人式は13歳で行われるため、12歳くらいまでが、神から子どもとして見做される上限の年齢だという見方もある。
しかし、知性や意志決定能力の成長度合いは、人によって個人差があるので、子どもと見做される年齢については、各人によって異なる可能性が高いだろう。
臨死体験の証言
最後に、聖書以外の情報として、有名な臨死体験の証言を取り上げよう。数年前に日本でも話題となった書籍「天国は本当にある」は、コルトン君という当時3歳の子どもの臨死体験をテーマにしたもので、映画化もされている。
コルトン君は、臨死体験中に天国へ行ったと証言しており、そこで会ったイエスやバプテストのヨハネについて、また天国で見た他の色々なものについて家族に話すのだが、証言の内容がことごとく聖書の描写と一致していた*[2]。
さらにコルトン君は、「お母さん、僕のお姉ちゃん、もう一人いるでしょ?」と話し、天国で自分の姉に会ってハグされたと母親に打ち明けたが、このことは両親に大きな驚きと感動を与えた。実はコルトン君が生まれる前、母親はお腹の赤ちゃんを一人流産していたのだが、そのことはコルトン君に話していなかったからだ。また、その子が天国で両親に会えるのを切望している、ということを聞いた母親は、流産によって深く傷ついた心に慰めを得た。このようにコルトン君は、臨死体験を通して、地上では知り得なかった情報を得ていたのだ。
これらの証言は、幼い子どもたちの死後の救いについて、大きな信憑性を持たせるものとなっている。また、幼い子供に対して救いが適用されるのであれば、同じような状況下にある知的障害者に対しても、同様の救いの原則が適用されるはずである。
現在コルトン君は、大きくなり、父親と同じ職業である牧師になっているが、今でも幼い時に語った証言を曲げてはいない。
結論
聖書には、幼い子供や知的障害者の救いについての明白な証言は無い。しかし、救いに関する原則や、救いの可能性を示唆する聖句を考慮すれば、彼らが死後に救われているということに関して、聖書は肯定的な見方をしていると言えるだろう。
また、臨死体験の証言等も踏まえれば、その答えはより明瞭になってくる。本記事では、コルトン君の体験談を紹介したが、他にも、天国で幼い子供たちを見たと証言する臨死体験者は多く存在する。
最後に、キリストの証言によれば、神は善い方である。(ルカ18:18~19)先に亡くなった人々の運命がどのようなものであれ、私たちは、神が完全な愛と正義によって一人ひとりを扱っておられるということに信頼を置くべきではないだろうか。
脚注
[1] なお、旧約聖書においては、人が死んでいく場所の多くが「シェオル」というヘブル語で表現されているが、そこがいわゆる「天国」のような場所だという信仰が彼らにあったかどうかは、聖書からはあまり明確ではない。ただし、「シェオル」に義人が行く安らぎの場所と、悪人が行く苦しみの場所がある、という信仰はあったと思われる。
[2] コルトン君は4歳だったとはいえ、牧師の息子であるため、日頃から聖書の話を耳にはしていたことが影響したのではないか、と考える人もいるだろう。ただし、彼の口から出る体験談や、体験後の神や天国に対する理解の変化や深さは、そのような理由だけでは片付けられないものである
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