9. 罪の贖い―イエス・キリストの十字架の死の意味|聖書の教え
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:5,6)
預言7)メシアは罪の贖いとして死ぬ
冒頭の聖句は、旧約聖書のイザヤ書にある「苦難の僕」と言われる有名なメシア預言である。「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」という表現から、メシアが人類の罪の身代わり(贖い)として死ぬことがわかる。
イエス・キリストと言えば、どの教会でも十字架がシンボルとなっているように、その十字架の死によって、最も知られている人物である。なぜ「イエスの死」がそこまで重要なのかというと、それは彼の死が人類の罪の贖い(身代わり)を表しているからだ。
しかし、「罪」や「罪の贖い」という表現は、日本人の感覚からすると、少々理解が難しいので、まずはその意味を説明する。
罪とは?またその影響とは?
聖書が教える罪の本質とは、「創造主である神を信頼しないこと」であり、それについての詳しい説明は、既に「罪による堕落~サタンと人間の反逆」で取り上げた。
アダムが創造主を信頼せず、禁じられた木からとって食べると、アダムは永遠の命を失い、死ぬようになった。それは神であるヤハウェが、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と語った通りであった。(創世記2:17)
その後、アダムが犯した罪は、アダムに連なる全ての人類にも影響を与えるようになり、全ての人は罪人として死ぬようになったのである。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
贖いとは何か?
「贖い」(ギリシャ語でアポリュトローシス)という言葉は、日本人には聞き慣れないが、聖書の中では繰り返し出てくる、重要な概念である。
聖書が教える「贖い」の基本的な意味とは、「損失の埋め合わせ」「身代わり」である。つまり、誰かが失った財産や権利(損失)を、「身代わり」となって、買い戻したり、埋め合わせたりすることを意味している。
例えば、Aさんが100万円の借金を負って返せない時に、BさんがAさんの借金を肩代わりして完済したとする。この場合、Aさんは、Bさんが損失を埋め合わせてくれたことによって、借金が帳消しになった。このような損失の埋め合わせが「贖い」の概念であり、この場合、BさんはAさんに対して、「贖い主」となったのである。
では、アダムの罪によって、人類全体が被った「損失」とは何だろうか? アダムが犯した「罪」に対する判決は「死」であり、それに連なる全ての人類は、共に罪による「死刑判決」が下されている。
損失の内容が「お金」であれば、それに相当する金額を払えば放免されるが、人類全体が背負った損失は「死」であるため、それを贖うための唯一の方法は、誰かが「身代わりの死刑判決」を受けることとなる。
罪を贖う人物の二つの条件とは
負債のある人間が、他の誰かの負債を肩代わりしてあげることはできない。同じように、既に罪という負債を抱えた人間が、同じ罪という負債を抱えている人間の命を贖うことはできない。したがって、人類の罪を贖う人物とは、罪をもたない人物でなければならない。
さらに、アダムという全人類の代表が罪を犯したため、その負債は全人類に広がった。したがって、罪をもたない贖い主は、普通の人間では務まらない。アダムと同じように、神によって全人類の代表として任命された人物でなければ、全ての人の罪を贖うことは決してできないのである。
イエスは贖い主となり得るのか?
処女から、罪の無い方法で生まれた
メシアが処女から生まれることについては、旧約聖書のイザヤ書の中で預言されていたが、(イザヤ7:14)[i]その理由は、メシアが罪の無い人間として誕生するためだった。
神は処女のマリアの胎内に、超自然的に聖霊を臨ませ、人間の男性との交わりを介さずに、メシアを誕生させた。詳しくは、ルカ1章26節~に記載されている。
キリストは罪を冒さなかった。
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(第ニペテロ2:22-23)
イエスは罪の性質を持たない人間として生まれただけでなく、かつてアダムが犯したような失敗をすることは無かった。イエスと三年以上もの間、寝食を共にした弟子のペテロは、イエスに何の偽りも見出だせなかったと語り、彼の潔白を証言している。
キリストの十字架の死
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:27)
イエスは、自分の死が、メシアによる罪の贖いであることを、はっきりと理解していた。イエスにとっては、死を逃れ、逮捕されないように生き続けることは容易なことだったが、初臨のメシアとしての使命を全うするために、自ら十字架に向かっていったのである。
ユダヤ暦ニサンの月の十五日、イエスは弟子たちと過ぎ越しの食事(最後の晩餐)を共にした。そして、ゲッセマネの園で祈りをした後に逮捕され、裁判にかけられた。
イエスはローマのムチで打たれ[ii]、激しく体を損傷した後、ユダヤ人たちの扇動によって十字架刑の判決を下され、ゴルゴタの丘に連れていかれた。
刑場に到着した後、イエスは手首と足に釘を打たれ、十字架に付けられた。[iii]イエスは厳しい痛みと苦しみに耐えながら、十字架に付けられてから六時間後、その息を引き取った。
イエスは、これら全ての試練の中にあっても罪を犯さなかった。自分を見失わず、ののしられても、ののしり返さず、終始、全てのことを神に委ね続けた。こうして、イエスは罪の無い人生を全うし、人類の罪の身代わりとして、その命を捧げた。―ヨハネ19章
「6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(フィリピ2:6-7)
十字架が示す、神の無限の愛
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)
メシアによる十字架の死は、人類の罪を贖うための唯一の方法であったと同時に、人類に対する神の無限の愛を、明らかにするものでもあった。
神が、最愛の独り子である、イエスの命を犠牲として捧げたことは、神が全ての人間を本当に愛していることを、確かに示す証拠となったのである。
神は聖であるため、いかなる罪も寄せ付けることはできない。神は義であるため、どんな罪に対しても裁かなくてはならない。しかし、神は愛であるため、罪人を見捨てることはできない。
メシアであるイエスの十字架の死は、神が「聖」「義」「愛」であることを示す、最大の方法だったのである。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
こうして、預言されていたメシアによる罪の贖いは、イエスの生涯と十字架の死によって成就した。最後に注目するメシア預言「メシア(キリスト)の復活」は、次回の記事で取り上げる。
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コルベ神父の身代わりの死ポーランドのカトリックの神父コルベ神父は、1941年、第二次世界大戦中、ユダヤ人とポーランド人を助けた罪に問われ、ナチに捕らえられ、アウシュビッツ強制収容所に入れられた。収容所には次のようなルールがあった。「『逃亡を図った囚人が出た場合は、同棟の囚人から10人が選び出されて窓のない地下室で餓死刑に処せられる』
そしてその年の7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになったが、ガイオニチェクというポーランド人軍曹が呼ばれた時、彼は「私には妻と子どもがいる」と泣き叫びだした。すると、この声を聞いたコルベ神父は次のように申し出た。「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」
収容所の責任者はこの申し出を許可し、コルベ神父を含む10人の囚人が、地下牢の餓死室に閉じ込められることになった。
通常、餓死刑に処せられると、その牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベ神父は全く毅然としており、終始他の囚人を励ましていました。時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツという人は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって、餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。
そして2週間が経ったが、コルベを含む4人はまだ息があったため、別の場所に移され、薬物注射によってその最後を迎えることとなった。その場に立ち会った通訳のボルゴヴィエツ氏はいたたまれなくなり、口実をもうけてその場から逃げ出したが、少し時間が経ってからコルベ神父のもとへ行ってみると、「神父は壁にもたれてすわり、目を開け、頭を左へ傾けていた。その顔は穏やかで、美しく輝いていた」という。
コルベ神父は1971年10月10日にパウロ6世によって列福され、1982年10月10日にポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。そしてその列福式および列聖式の場には、彼に助けられたガイオニチェク氏の姿もあった。彼はその後の生涯を通し、コルベ神父に関する講演を世界各地で続けた。
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脚注
[i] 処女降誕の出来事について「信じられない」という声がよく上がるので、説明を加える必要がある。
処女降誕を含める聖書の中の超自然的な現象を信じられない、という人は、創造論についてしっかりと学び、理解を深める必要がある。聖書によれば、神は万物を創造したが、この天地の創造こそが、あらゆる奇跡の中で、スケールや難易度の点において、最も偉大な奇跡と呼べるだろう。
創造論の科学的な裏付けは、十分になされており、詳しく学びたい方は、いくらでも本を買ってきて調べることができる。お勧めの書籍の一つは「創造の疑問に答える」という本である。
天地の創造に比べれば、処女降誕という奇跡を起こすことは、神にとって難しかったはずはない。万物の創造者に、不可能な無いはずである。他の参考情報は以下の通り。
処女降誕は、なぜそれほどにまで重要なのですか?
イエスの処女降誕がどうしても信じられません。 | 聖書入門.com
[ii] イエスが打たれたムチは、ローマ式の鞭であった。ローマの鞭は、通常の鞭とは異なり、鞭の間に石や動物の骨などの鋭利な物が埋め込まれた。そのため、当時ローマの鞭を受ける人の中には、それだけでショック死する人もいたほどであった。
[iii] 十字架刑の苦しみは想像を絶するものである。この刑は、犯罪者に最大限の苦しみを与えながら殺す方法として、考案されていった処刑法である。十字架に付けられた人は、手と足を貫かれた激痛に耐えながら、徐々に呼吸困難になっていき、やがて窒息死に至る。
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