2. 地の塩、世の光|山上の垂訓の解説
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地の塩、世の光(マタイ5:13-16)
あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
あなたがたは地の塩である
「あなたがたは地の塩である」イエスは弟子たちを「塩」に例えたが、この言葉は特に、イエスに従う者たちに適用されるものである。
なぜ塩に例えられているのだろうか?その理由は、当時から塩が、防腐剤として、腐敗を防ぐために用いられてきたことが挙げられる。わたしたちの住む人間社会は、全体として腐敗している。この事実は、少なくとも数十年社会で生きていれば、誰でも理解できる。
この状況は、イエスの生きた紀元一世紀のパレスチナにおいても、ある程度当てはまる事実であった。それで、イエスの教えに従う弟子たちは、そのように腐敗している世の中にあって、社会の腐敗を防ぐ防腐剤の役目を果たすことが期待されている。
世の中には、実に様々な哲学や宗教が存在するが、イエスの教え、つまり聖書の教えほど、私たちに愛することの重要性を説くものはない。その内容は、神が、自分の独り子を捧げるほど、一人一人の人間を深く愛している、という事実である。
神の愛を真に受け入れた人は、同じような愛をもって、周りの家族や友人に接することができるようになる。そのようにして、イエスに従う弟子たちは、周りの人に良い影響を与え、社会の腐敗を防ぐ役目を果たすことができるのである。
夫の不倫を許したクリスチャンの妻の話
一つ、興味深い実話を紹介したい。ある日本人の夫婦がいたが、妻はクリスチャンで、夫は違かった。夫はある時期から特定の女性と不倫をするようになり、その関係は十年以上に及んだ。
そんなある日、その夫は、不倫相手の女性が、死亡したことを知り、葬式に呼ばれた。夫は葬式に行きたかったが、隠れて行くことができない事情があったのか、妙にそわそわしていたようである。するとそこへ、クリスチャンの妻が、夫に衝撃的な言葉を伝えた。
「あなたが不倫をしていたことは、私にはずっとわかっていました。それでも、いつか気がついてくれると思って、私はそれを言いませんでした。今、あなたが不倫をしてきた女性が死んで、葬儀があることは知っています。葬儀に行って下さい。そしてそこで、しっかりとお別れをしてから、私の元に戻ってきて下さい。」
夫は妻のその言葉を聞き、泣き崩れた。妻は不倫に気付いていないと思っていたが、実はずっと知っていたのである。それにも関わらず、忍耐強く、夫の反省と変化の時を待ち続けてくれた妻の心の広さに、夫は涙を流したのであった。そして彼は、この経験を通して、妻が信じている神が、本物の神であることを悟り、自分の悪行を深く悔い改めた。
夫は強く心を動かされ、妻と同じように、聖書の神を信じる道を歩むようになり、後に聖職者となった。妻は、地の塩として、その立派な務めを果たしのである。
あなた方は世の光である
イエスが宣教活動をした中心的な地域は、イスラエルのガリラヤという地域であったが、そこにはガリラヤ湖という大きな湖がある。夕暮れ時にガリラヤ湖畔に立つと、丁度町が山の上にあり、光輝いているのが見える。その景色を想像すると、イエスがどのような意味でこの言葉を語ったのかがよく理解できる。
腐敗に侵された人間社会全体は、まさしく闇のようである。しかし、イエスは闇を照らす光として、世に来た。。したがって、イエスの教えに従い、イエスと同じような基準で生き、愛をもって行動するクリスチャンもまた、世の光なのである。
ただし、イエスの弟子たちは、光そのものではない。弟子たちの内に生きているキリスト自身が、光となるのである。
人種差別と戦ったマーティン・ルーサー・キング牧師
キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア「1929年~1968年」)は、かつて米国で人種差別と果敢に戦い、差別撤廃に大きく貢献した牧師である。
彼は1955年、白人に席を譲るのを拒んで逮捕されたローザ・パークス逮捕事件に抗議して、バス・ボイコット運動を指導。これにより、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決を勝ち取った。そしてこの事件を機に、キング牧師は全米各地で公民権運動を展開していく。
キング牧師は、「非暴力主義」を活動の理念としたが、これはイエスの教えと、インド独立の父ガンジーに啓蒙されたのである。(そもそもガンジーの非暴力主義も、イエスの山上の垂訓の教えから来たものである)
彼が1963年に語った有名な演説「私には夢がある(I Have a Dream)」は、広く共感を呼んだメッセージとして世界中で有名である。これらの運動によって、米国内の世論も盛り上がりを見せ、1964年には公民権法が制定された。
その後キング牧師は、「ベトナム反戦運動」へ積極的に関与するようになる。敵も増えていくなか、精力的に活動を続けたが、1968年にテネシー州で「私は山頂に達した(I’ve Been to the Mountaintop)」と演説後、モーテルで白人男性の凶弾に倒れた。
道半ばで亡くなってしまったとはいえ、彼が輝かせたキリストの光は、世界に大きな影響を与えた。キング牧師は、世の光として、その役目を果たしたのである。
キリスト教はなぜ歴史的に戦争をしてきたのか?
キリスト教が聖典としている聖書の教えの中心は「愛」である、ということを論じていく際に、避けて通れない論題がある。それは、なぜキリスト教は、歴史を通じて、多くの戦争を行ってきたのか?という問題である。
まず、歴史的事実として、特に中世の時代以降、教会は多くの戦争に加担してきた。また、戦争以外にも、教皇の権威を用いて「異端審問」を行い、多くの人間を不当に拷問・殺害してきたことも事実である。
では、なぜキリストの教えを掲げる教会が、そのような悪行に走ったのだろうか?その理由は単純である。彼らは、キリストの教えを知りそれを守ることよりも、自分たちの人間的な欲望を第一としたからである。
イエスは、自身の教えの中で明確に「殺してはならない」「敵を愛しなさい」と語った。したがって、かつて戦争を行ったり、戦争に加担してきた教会は、イエスの教えを実際に守る真のクリスチャンではなかった。彼らは偽のクリスチャンだったのである。
特定の宗教だけを絶対化することは、戦争を招くのか?
多くの日本人の感覚として、特定の宗教だけが正しいとすることを避け、周囲との「和」を重視する傾向がある。そして、ある人達は、特定の宗教を絶対化することが、宗教戦争の原因となると考える。そしてその事例として、先に挙げたキリスト教の戦争や、近年のイスラム教過激派のテロリズムなどを挙げる。
しかし、先に述べたように、キリスト教が歴史的に行ってきた戦争の背景は、キリストの教えに起因するものではなく、人間的な欲望によるものであった。つまり戦争を実際に行ってきた教会や教皇は、聖書の教えを建前として利用した偽善者たちだったのである。
もし彼らが、自分たちの欲望ではなく、キリストの教えを絶対化して、その教えに固く従っていたならば、今頃世界はもっと平和な場所になっていただろう。
ただし、世の中の宗教の中には、危険な教えが紛れているものも数多くあるので、そこだけは注意しなければならない。例えば、サリン事件を起こしたオウム真理教は、まさにそのような教団であった。
ちなみに、宗教を建前とした戦争も悪いものだが、無神論者が引き起こす戦争も、極めて残忍なものである。例えば、二十世紀の記録的な大虐殺者である、スターリン、ヒトラー、毛沢東などは、皆無神論者であった。彼らが神の存在と、死後の裁きを信じていれば、あのような大虐殺に走ることは決して無かっただろう。
統計的には、これまでに起きた戦争の中で、実際にキリスト教が関係してものは、僅か2%だった、ということもわかっている。したがって、キリスト教が戦争ばかりしてきた、という理解は、全くの誤解であることがわかる。
結論として、キリスト教が引き起こしたと言われているあらゆる戦争は、偽クリスチャンが関与したものであり、本物の信仰者が関与したものではなかった。
※参考までに、以下の記事も挙げておく
http://www.logos-ministries.org/question_war.html
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