20. 二つの道―命に至る狭い門、滅びに至る広い門|山上の説教の解説
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二つの道―狭い門と広い門(マタイ7:13-14)
「13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」
山上の説教の結論―二つの道、木、告白、家の対比
キリストは、山上の垂訓の教えの締めくくりとして、四つの種類の対比~二つの道、二つの木、二つの告白、二つの家、を挙げた。これらの対比はどれも、救いの道と滅びの道を明確に示した、極めて重要な結論部分となっている。
話の展開を整理すると、最初に「命に至る道を行く者は少なく、滅びに至る道を行く者が多い」ことが示される。続けて、狭い門から入るための二つの重要なことが挙げられていく。
一つ目は、「偽預言者に注意すること」であり、その見分け方として、彼らの実を観察するように教えられる。
二つ目は、自己欺瞞の告白をする者ではなく「父の御心を行う者が天の御国に入る」という点であり、聞いて行う人と行わない人の結末がそれぞれどうなるかが、二つの家の対比で示されている。
滅びに至る広い道を信じていたユダヤ人
13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
命に至る門は小さく狭く、そこから入る人はとても少ない。一方、滅びに至る門は大きく広く、そこから入る人は多い。イエスが語った救いに関するこの真理は、当時のユダヤ人やその宗教的指導者のパリサイ人たちの認識を、根本から覆すものだった。
なぜなら、当時のパリサイ派の神学では、「ユダヤ人であれば誰でも救われて神の御国に入れる」と教えられていたからだ。当時のユダヤ人がこのような認識を持っていたことは、洗礼を受けるために来た人々にバプテストのヨハネが語った次の言葉からも読み取ることができる。
「3:7 それで、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。8 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。 9 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(ルカ3:7-9)
キリストへの信仰―命に至る狭い門
では、命に至る狭い門とは、どんな道を表しているのだろうか?パリサイ派の著名なラビであったニコデモに対して、イエスが語った言葉からその真理を明らかにしていこう。
3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。 3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」 3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。・・・16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
「新しく生まれる」とは、聖書的にはイエス・キリストに対する信仰を持つことを意味する。つまり、イエスが定義した命に至る狭い門とは、救い主であるイエス・キリストへの信仰なのだ。
聖書の神が、人類を救うために用意した方法は、キリストの十字架と復活(福音)のみであり、その事実は、聖書全体を通して議論の余地なく明らかにされている。
ニコデモは、ユダヤ教の指導者として、律法上の行いにおいては非の打ちどころの無いような生き方をしていただろうが、人間の努力による行いの積み重ねは、救いを保証するものとはならなかったのだ。
「6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
命への狭い門を理解し、それを見出す
キリストの十字架だけが救いに至る唯一の道である理由は、人類の堕落と滅びの根本原因が、アダムから始まった罪によるものだからだ。そして、滅びの原因が罪なのであれば、その罪を取り除くができるのは、罪の無い人によって捧げられる「身代わりの死」だけとなる。
他にも方法があったのであれば、神がわざわざ最愛の息子を遣わして、十字架の苦しみを通過させるようなことはしなかっただろう。したがって、キリストの十字架以外は、罪の問題を解決する手段とならず、救いの方法とはならないのだ。
今日、世界には様々な宗教や思想があるが、キリストへの正しい信仰によって、狭い門から入っている人は、決して多くはない。確かにキリスト教は世界最大の宗教とはなっているが、命に至るような真の信仰を持っている人は、あくまで少数派なのだ。
このような事実を考えると、「狭い門から入る者は少ない」という言葉は、時代を越えた真理であることが読み取れる。日本でも、誰かが死んだ時に「天に召された」という表現を使うが、実際には死んだ人の大多数は、天に召されたわけではないのだ。
狭い門から入る人が少ない理由は、それに多大な努力が必要だからではない。それを「見出す」ことが難しいからだ。しかし神は、真理を求め続け、探し続け、叩き続ける人々が、確かにそれを見出すことができるように助けて下さるだろう。(マタイ7:7-12)
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