「信じない者から信じる者へ」

中村誠司 (熊本県出身)

はじめはただ、パンをもらいに行っていただけでした。食べ物に困った私は、炊き出しをめぐって飢えをしのいでいました。出来るだけ目立たないように人目を避け、ホームレスの皆さんの中にかくれるようにして、こそこそとパンをもらいに来ていました。

その当時、私はクリスチャンではありませんでした。むしろ現代社会において、宗教とはその役目を終えたものと考えており、立場としては無宗教でありたいと思っていました。ですから、「あなたはイエス・キリストを信じますか?」「イエス様が生きておられることを信じますか?」などと言われると、正直困って、「参ったなあ」と思ったものです。しかし、興味はありました。

その役目を終えたはずの宗教を心の支えとして生きている人たちがまだ多いのも事実です。さらに、海外に目を向けると、文化、風習、言語に至るまで宗教を無視しては何も考えることはできません。私はできる限りキリスト教を理解したいとも思っていました。ですから、いつもそれらの答えには「まだ信じられないが、知りたいと思っています」と答えていました。そして、通路チャペルの皆さんは、こんな私でも受け入れてくださいました。

毎週土曜日、来れる日もあれば、来られない日もあります。通路チャペルに行けない日が続いて、引きこもったこともあります。それでも、私がひょっこり顔を出せば、明るく、温かく、私を迎え入れてくれました。まだ、ノンクリスチャンであった私を、です。その点においては、他の教会にはなかなかマネできないことであろうし、見習っていただきたいところであります。

かつては、パンをもらうためだけに行っていた通路チャペルですが、いつしか私はここに、交わりを求めに来ていました。そしてある日のことです。それは突然起こりました。その当時、親しくしていただいたアダムさんという方に「イエス様が生きておられることを信じますか?」と聞かれたのです。私はいつものように答えようとしたのに、口から出た言葉は「信じるよ。うん。信じる」だったのです。信じられないのは私自身でした。

人はなぜ神を信じるのか。このテーマについて長い間考えてきました。しかし、どれだけ考えても結論は出ませんでした。成り行きで洗礼を受ければ信じられるか、と思った時もありましたが、それは無理なことでした。そんな私が「信じる」と言えたことが、信じられない出来事でした。しかし私はこの出来事を受け入れました。「信じる」と答えたのは私自身で、しかも、その答えは人の思考の中から出たのではなく、全く違うところからやって来た答えで、この二つの事実は真実で、何より私自身がそのことの証人です。「信じる」と答えた私を、私自身が「信じた」のです。この時に私は本当の意味で神様を受け入れました。

いまだに、なぜあの時に「信じる」と言えたのか私にはわかりません。賛美チーム「モバイルチャーチ」の人たちは「きっと聖霊様の働きだ」と言ってくださいますが、私には分かりません。しかし、確かに分かる事は、毎週土曜日の通路チャペルには、祈りと賛美をささげて、みことばを聞き、交わりをして、パンを分け合いたくて来ている、ということです。そして、引きこもりだった私が、交わりの中で社会性を取り戻しつつあります。

奉仕されている皆さんの働きを通して、主である神様が、その愛を示してくださっているように思えます。たくさんのことに感謝したいと思います。そして、すべてを主にささげて祈りたいと思っているのです。「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心を持って食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」

(使徒2:46,47節)

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