聖書は同性愛を本当に罪だと教えているか? ―キリスト教の疑問
※本記事はクリスチャン向けの内容となっています。また記事のボリュームがかなり多いので、予めご了承下さい。
前回にこのテーマについて書いた記事「同性愛者への希望」には多くの反響がありましたが、同時に同性愛を肯定する立場の人々からの批判も多く受けました。また、その批判の多くは、ノンクリスチャンからではなく、同じ神を信じるクリスチャンからのものでした。
世界中のクリスチャンの間では、この問題を巡る論争には根深いものがあり、たとえ同性愛否定派であろうが、肯定派であろうが、自分の立場を公言するならば、必ず多かれ少なかれ批判を免れることはできません。
この問題について、同性愛の否定派は一貫して「聖書の中で明確に否定されている」と主張し、それに対して肯定派は「そのように理解すべきでない」「同性愛者を傷つける行為」だとして否定派を批判します。しかし、キリスト教内における同性愛を巡る議論の最も重要な争点となるのは、やはり「神は実際に同性愛を非とされているのか?」という点に集約されるのではないでしょうか?
今回の記事では、前回の記事では十分に取り上げることのできなかった、同性愛に対する聖書的な見方とその根拠について、深く掘下げて説明をしていきたいと思います。内容は、クリスチャン向けとなりますが、ノンクリスチャンにとっても、この問題を理解する上で、少なからずの助けになることでしょう。
同性愛の答えを求めた筆者の道のり
ある教団を離れた同性愛者
私が最初に聖書を学んだ教団では、同性愛は禁止されており、それは聖書の見方に反すると教えられていました。その当時、私の周りには同性愛者もいなく、また聖書にもはっきりとその事が書かれているため、その教団にいた時期は疑問を持ったことはありませんでした。
しかし、その教団を離れる際に読んだある経験が、私の理解に疑問を持たせることとなりました。それは、その教団を抜けたある男性の証だったのですが、その人は悩んだ末に教団を抜ける前、友人にこんな話をするのです。
「僕は、この教団を抜けようと思う。やっぱり、自分は同性の人を好きになっちゃうんだよね。」
この経験を読んだことがきっかけとなり、私は「神は実際には、同性愛者を非とされていないのではないだろうか?」と思うようになりました。私が答えを求めてネットサーフィンをしていると、同じクリスチャンの中にも、同性愛者であることを公言している牧師がいることに気付いたのです。またその時に、同性愛者向けの礼拝や活動をしているクリスチャンの団体もあることを初めて知りました。
同性愛を公言する牧師を尋ねる
次に私は、実際に本人に会って話を聞いてみようと思い、彼が牧会する教会に出向き、話を聞きにいきました。その場でどんな話をしたのか、詳しいことは思い出せませんが、気になっていたことは一通り確認した覚えがあります。そして、本人から色々と話を聞いていく内に、自分の考えが「やはり神は同性愛を非とはされていないのでは?」という方向へ向いていったことを思い出します。
帰り際に、その牧師が私に紹介をしてくれた本がありました。それが「虹は私たちの間に―性と生の正義に向けて」(新教出版社)という本です。内容を簡単に要約すれば、「同性愛断罪を示唆する聖書箇所を、今日の相互的な同性愛行為を断罪する根拠とするのは間違っている」という主張を、聖書から詳しく論じている本です。
帰宅後、早速私はその本を注文し読んでみました。そして、その本を通して、当時の私は、一般的に同性愛禁止と考えられている聖句の多くには、もっと別の解釈の可能性があると考えるようになったのです。
葛藤から信仰の確立へ
同性愛に対する見方に一段落した後、私は別の疑問に対する答えを真剣に見出さなければならない時期に来ていました。それは聖書の信頼性に関する問題です。最初の教団では、聖書全体を誤り無き神の言葉とする十全霊感説が教えられていたため、そこにいた頃は特に疑問を感じることはありませんでした。ところが、その教団を抜けて以降、自由主義神学に触れ、聖書への理解・解釈の仕方に様々なバリエーションがあることを初めて知り、大きな葛藤を心の中に覚えたのです。
しかし、答えを探し求めていく内に、新約聖書の記録全体が十分に信頼に足る情報であること、またそこに明確に記録されているキリスト・イエスの証言が、自由主義神学や今日の聖書学で一般的に提唱されている説と折り合いが付かないことに気付くようになりました。
他にも、ヘブル的な視点で聖書を学ぶことや、イエスから直接的に啓示を受け取った多くのクリスチャンたちの証言を考察していく内に、二千年前に来られたイエス自身が、また今も生きて働いているイエス自身が、聖書全体を神の霊感を受けた言葉と見るよう要求していることを理解するようになったのです。
それと共に、同性愛に対する私の見方は、再び最初の頃に戻りました。その理由は、福音的・ヘブル的な聖書の読み方への理解や、同性愛を悔い改めてクリスチャンとなった数多くの人々の証、それらの人々が主イエスと聖霊によって示された数々の言葉、そして天国や地獄に関するイエスからの直接の啓示などを通して、やはり神が同性愛を非としておられることを明確に認識するようになったからです。
前置きが少々長くなりましたが、私がどのような経緯や思いを辿った上で、現在の理解を持つようになったのかを知っていただくことも、本記事の主旨を理解していただく上で、重要だと感じたのです。
そして、誤解を与えぬようお伝えすべきことは、本記事を書く重要な目的は、同性愛行為を裁くためではなく、何が神の御心なのかを、正確に解き明かすことにあります。結局のところ、私たち人間側の感覚や論理ではなく、神の側の基準が最も重要だと考えるからです。
私たちは一人として例外なく、神に造られ、神に愛され、神の創造された世界の中で生きています。ですから、私たちがどんな基準を第一とするかは、私たちが勝手に考えるべきものではなく、神の側に合わせて考えるべきものだと思うのです。
※主要な情報源ですが、キリストに関連する聖書の信頼性についてはリー・ストロベル氏の著作やその他複数の書籍から(特に『ナザレのイエスは神の子か』は素晴らしい情報源でした)、ヘブル的な視点に立つ聖書理解はハーベストタイムから、元同性愛者の証はリーハイバレー・ジャパニーズ・ミニストリーから、現代のキリストによる啓示は同じくリーハイバレーや、その他様々な書籍やサイトを通して、得ることができました。貴重な情報提供をして下さったそれぞれの働きに心から感謝致します。
同性愛を巡る論争―問題を整理する
同性愛「行為」と「傾向」の違い
聖書は「同性愛の傾向を持っていること」が罪だとは述べていません。禁じられているように見える聖句は、あくまでその「行為」を禁じているのであって、「傾向」を持っていること自体が罪だとは教えていないのです。
ですから、本記事の議論の焦点となっているのは、常に「同性愛行為」が罪かどうか、という点であることを、まずご理解下さい。
同性愛に対する立場の変遷
冒頭でお伝えした通り、同性愛に対する立場に関しては、クリスチャンの間では根深い論争があります。もっとも、キリスト教の誕生以来、長い間同性愛は広く禁じられてきた歴史があるのですが、現代において同性愛者に対する理解が世界的に進んできた経緯から、キリスト教徒の間でも同性愛を認める人が多くなってきている現状があるのです。
しかし聖書によれば、神はキリストを信じる人々に対して明確な倫理基準を設けており、その中には偶像礼拝や淫行や盗みなどと合わせて、同性愛行為を禁じているような箇所もあるのです。(第一コリント6:9、ローマ1:26-27)
同性愛は他の罪とは異なる?
しかし、他の禁止令についてはクリスチャンの間で際立った論争が生じることはないのに、同性愛の問題についてはことさら激しい論争が起こるのはなぜでしょうか?それは、「偶像礼拝・淫行・盗み」などについては、私たち人間の一般的な感覚からしても、それが罪であることを受け入れやすいのに対して、「同性愛行為」については、その傾向を持つ人々にとって、受け入れがたい問題となるからです。
同性愛者となる原因は人それぞれですが、その中には本人が意図せずにそのような傾向を持つようになる人も多々含まれます。それらの人にとっては、異性ではなく同性を愛することの方が「自然」だと感じるのです。つまり、異性愛者が異性を愛することを「自然」だと感じるのと全く同じように、同性愛者は同性を愛することの方が「自然」だと感じるわけです。
誰も生まれつき、「偶像礼拝・淫行・盗み」をすることを自然だと感じる人はいません。しかし、同性愛者の場合はそうではなく、生まれつきそれが「自然」だと感じる人がいるわけです。ここに、この問題の難しさがあるのです。
立場の違い=聖書観の違い
するとある人々は、「自然に人を愛することが罪だとは思えない」「神が同性を性的に愛することを禁じているとは思えない」「聖書の同性愛禁止令には他の解釈があるはずだ」と考えるようになります。実際に私も、かつてそのような考えを持った一人でした。
ところが、同性愛を禁止する聖書の箇所を厳密に読んでいくと、やはりレビ記18・20章やローマ1章では、同性愛行為が明確に禁じられており、それは「虹は私たちの間に」の著者もある程度認めている部分です。そこで、クリスチャンでありながら同性愛を肯定するためには、「聖書の権威・解釈の相対化」をする必要が生じます。
つまり、聖書を神の霊感を受けた言葉と見做しその権威を重んじる福音的な立場(正統派)から、聖書の権威を相対化する「自由主義的な立場」を選択する必要が生じます。そこでは、同性愛を含む聖書の様々な禁令は、あくまで当時の時代の人々に書かれたものであり、時代の変化に合わせて、そのテキストは再解釈が必要だとされます。また、聖書はその全体が神の霊感を受けた言葉なのではなく、人間の言葉も含まれているのだから、その権威や解釈の相対化は問題無いとされます。
以上の点を考慮すれば、クリスチャンが同性愛行為に対してどのような立場を取るかは、聖書そのものをどう理解するか?という「聖書観の問題」とも深く関係していることがわかると思います。実際に、聖書を神の言葉と信じる福音主義的な立場のほとんどの教会においては、同性愛が肯定されることは無いからです。
そしてこのような聖書観の違いは、最終的に「私たち人間の感覚」と「創造主なる神の言葉(基準)」のどちらを判断基準の上に置くかによって変わってくるのです。
「虹は私たちの間に」
本記事の目的を再確認させていただくと、「聖書は本当に同性愛を禁じているのか?」という疑問に対する答えを提供することとなりますが、話の展開として、既にご紹介した同性愛を肯定する立場で書かれた「虹は私たちの間に」における著者の主張を軸として進めていきたいと思います。
なぜなら、同性愛者であることを公言する牧師が紹介してくれたこともあり、この本の内容は、まさに同性愛肯定派のクリスチャンたちの主張や、その主張の基礎となる聖書観をよく表現しているからです。またこの本は、著者が同性愛者を擁護するために書いた渾身の力作でもあり、執筆にあたって広範囲な文献が引用・参照されていて、取り上げる価値のあるものとなっているからです。
さらに、前回に私が当サイトで書いた記事「同性愛者への希望」に対してなされた様々な批判の内容も、この本の著者の主張と実に多くの共通点があったのです。ですから、この本で著者が展開している様々な主張に返答をしていく形で、本記事を構成していくことが良いと考えたのです。
同性愛禁止の根拠となる聖句
聖句一覧
創世記2章:結婚の規定
「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)
創世記19章:ソドムの罪
「4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。5 そしてロトに向かって叫んで言った。『今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。』」(創世記19:4-5)
レビ記18・20章:男と寝てはならない
「あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。」(レビ18:22)
「男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。」(レビ20:13)
ローマ1章:恥ずべき情欲
「26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」(ローマ1:26-27)
第一コリント6章・第一テモテ1章:男色をする者
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(コリント人への手紙第一6:10)
「すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、10 不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。」(第一テモテ1:9-10)
本記事の進め方
同性愛に関する聖書的な見方を十分に理解するためには、(1)断罪の根拠とされている聖書のテキストの考察と、(2)聖書観、および体系的な聖書理解の方法に関する考察、の両方が必要です。
そのため本記事では、最初に聖書のテキストに対する考察を、「虹は私たちの間に」の著者である山口氏の主張を取り上げながら解説していき、その次に聖書観の考察を進めていきたいと思います。
また、それぞれの項目では、本の中で示された山口氏の見解を随所に引用します。引用箇所の語尾に(10項)のようにページ数のみが載っている場合は、「虹は私たちの間に」からの引用だとご理解下さい。
聖句を引用する場合は、全て新改訳聖書からの引用となりますが、他の聖書から引用する場合は、その点を記載致します。
※なお、上記でご紹介した創世記19章のソドムの罪は、同性愛断罪の確かな根拠にはなり辛い側面がありますので、本記事では取り上げません。
結婚の秩序―創世記2章
テキストの解説
「18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」・・・21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。 23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」 24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:18-24)
書簡の解説
創世記は、レビ記と同じくモーセ五書(トーラー)の一部です。モーセ五書とは、旧約聖書の創世記から申命記までの五書のことを意味し、伝統的にはモーセが記録し編纂したものと考えられています。しかし、ここ数世紀の間における自由主義神学の発達により、モーセ五書はモーセが記録・編纂したものではなく、より後代の紀元前6世紀のバビロン捕囚期以降に、様々な編集者の手によって編纂されたものだと、多くの学者が考えるようになりました。
しかし、新約聖書のイエスの証言を考察すればわかる通り、紀元一世紀のユダヤ人も、イエス自身も、律法がモーセによってまとめられた神からの言葉だと理解していたことは明らかです。ですから、聖書全体を神の霊感を受けた言葉と信じる福音的な立場では、律法がバビロン捕囚期以降に編纂されたものだということは信じられていません。
いづれにしても、創世記に記録された天地創造を「神話」と見るのか、もしくは「歴史的事実」として捉えるのかによって、ここでのテキストへの理解は大きく異なってきます。
テキストの意味
引用聖句の中で、同性愛のテーマと特に関連があるのは、2章24節にある「24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」という箇所ですが、ここで示されているのは同性愛の断罪ではなく、男女の結婚の結びつきに関する神の秩序です。
つまり、「男」は「妻(女)」と結びつき、「一体となる」(結婚する)のが、神が世界の創造以来定めた基本的な秩序であるため、同性同士の性的な結びつきはふさわしくない、という主張がなされてきたわけです。
西洋語圏では、「神はアダムとエバを造った。アダムとスティーブではなく」という言いまわしがあり、この主張を端的に表現しているようですが、「それでは神はなぜスティーブも造ったのか?」という切り返しが、同性愛者の側からなされるわけです。(85項)
結論への道筋
創世記1~2章が「男女の結婚が、神の秩序・自然な関係であることを示している」という点については、山口氏も著書の中でそれを認めていますが(99項)、続く箇所では次のような反論を展開しています。
- 創世記の人間の創造に関する記録は、あくまで神話的意味作りの物語である。
- アダムとエヴァの結婚によって示されたのは、あくまで代表事例であって、他の様々な可能性を否定するものではない。
- もしも、代表例が全人類の在り方を規定すると受け取ってしまうのであれば、人は皆、男女のカップルになり、恥ずかしがらずに裸で生活し、菜食主義で農業に従事しなければならないことになるが、それはあり得ない。
- だから、神話的意味作りの物語である創世記のこの箇所を根拠に、あらゆる性的関係が「男と女」の関係であるべきだというのは間違っている。
しかし、創世記の記録に対する私の理解は、次のようなものであり、山口氏とは大きく異なります。
- 創世記のみならず、聖書全体は単なる神話ではなく、歴史的事実です。創世記の男女の関する記録についても、それが史実であったことについては、イエス自らが言及しています。(マタイ19:4-5)
- 「アダムとエバの代表例が全人類に適用されるなら、男女のカップルも裸で生活をしなければならなくなる・・・」と説明されていますが、明らかに聖書の文脈・背景を無視した参照方法となっており、創世記2章の男女の結婚の話と同列に置くことはできません。
この内、創世記の創造の記録が神話なのかどうか、という点については、テキストの考察というよりは聖書の歴史観に関わる問題となりますので、本記事の後半で取り上げたいと思います。ここでは、(2)における「裸で生活すること」や、「菜食主義」などが、男女の結婚の秩序と同列に置くことができるのかどうかを考えていきます。
結婚の秩序の一貫性
創世記の創造の記録について、本の中で主張されている具体的な点は、次のようなものです。
(男と女が結婚するという)代表例が全人類の在り方を規定すると受け取ってしまうのであれば、人は皆、男女のカップルになり、恥ずかしがらずに裸で生活し、菜食主義で農業に従事しなければならないことになるでしょう。
また、一つの民族で一つの言語だけを用いて、世代間の家族関係や友人関係を楽しんだりすることもなく、カップル間で生殖に励み続けなければならないでしょう。(100項)
ここで山口氏は、創世記2章の男女の結婚が全人類の在り方を規定するのであれば、それと同じように人は裸で生活し、ベジタリアンになり、農業だけを行い、一つの言語だけを用いなければならない、と主張しています。
しかし、結婚の規定と同列に置かれた他の事柄は、聖書的な文脈を考慮すれば、同列に置くことができないのは明らかですので、これからその問題点を説明していきたいと思います。
男女の結婚の一貫性
最初に、聖書全体における結婚の秩序の一貫性について取り上げたいと思います。なぜなら、この一貫性を理解することによって、山口氏が同列においた他の事柄との明確な違いを知ることができるからです。
「24 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)
「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」(創世記9:1)
「4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-5)
「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、」(テモテ第一3:2)
引用した箇所を見て頂ければわかる通り、聖書の記録によれば、全時代を通じて結婚は男と女との間でなされることが大前提となっています。
ノアが方舟から出た後、神は新しい時代に対する契約として、「子を生んで多くなるように」と伝えましたが、この命令は男女の結婚を前提としたものです。神は男女の秩序の維持は示唆されましたが、肉食を許可することにより、菜食の維持は示されませんでした。
マタイ19章のイエスの言葉は、モーセの律法下の時代における言葉ですが、創世記2章の引用となっており、その結婚が歴史的事実であったことを前提にしつつ、その基準の普遍性を訴える内容となっています。また、モーセの律法における結婚する男女の規定は、全て「男」と「女」の結婚を前提として書かれています。
そして新約時代のパウロの手紙でも、男性が「一人の妻」と結婚するべきことが示されています。文脈上は、一夫多妻制への警告となっていますが、一人の「妻」となっており、相手が女性であることが前提となっている点にも注目することができます。
以上の点を踏まえると、男女の結婚に関する秩序は、全時代を通じて、一貫して神から出ていることが理解できます。
裸で生活すること
最初の人間夫婦が犯した罪は、その後の二人と人類全体に、多くの変化をもたらしました。しかし、堕落前と堕落後で、変化したものと、しなかったものの両方があります。男女の性関係の秩序は、堕落後の世界でもそのまま継続し、モーセの律法でも、キリストの時代以降も語られていることは、既に見てきた通りです。
一方、裸でいることについては、罪を犯した後すぐに、二人の中に認識の変化が生まれました。神が動物の犠牲を通して二人に毛皮の衣を与えたことは、神が以降の人類が裸を隠して生活することを認めたことを示唆しています。(創世記3:21)
菜食主義
ノアの大洪水前の人類は、菜食主義でしたが、大洪水後は神からの語りかけ(ノア契約)によって、正式に肉食が許されるようになりました。(創世記9章)
※農業に従事する必要性については、どの箇所を引用して語っているのかがわかりませんでした。
一つの民族と一つの言語
大洪水後、バベルの塔の事件までは、人類は一つの言語でしたが、民族はノアの三人の息子であるセム・ハム・ヤペテから枝分かれしていったのであり、一つの民族に規定するよう指示されている箇所は全くありません。(創世記10章)
また、複数の言語に分かれた背景は、人間の罪に対する神の裁きの結果であって、神ご自身がもたらしたものです。(創世記11章)
※「世代間の家族関係や友人関係を楽しんだりすることもなく、カップル間で生殖に励み続けなければならない」の聖書的根拠はわかりませんでしたが、そのように要求している箇所はありませんので、どこかの箇所の拡大解釈だと考えられます。
結論
これまでに考察した点を踏まえれば、結婚の秩序については神が時代を越えて示されているのに対し、結婚と同列にリストアップされた他のあらゆる事柄は、神が同じような一貫性を持って啓示していないことがはっきりとわかります。
結論として、創世記のテキストの考察で示された著者の論法は、いずれも創世記の記録に対する誤解によるものです。そして以上の考察から、神が聖書を通じて、男女の結婚の秩序を一貫して示していることは明らかだと言えます。
なお、創世記が神話かどうか、という問題については、本記事の後半で取り上げます。
よく用いられる論法について
次の聖句の解説へと進む前に、創世記の考察で山口氏が用いた論法を確認しておきたいと思います。
- 聖書は確かにAが禁止だと言っている。
- しかし、聖書はAと合わせてBも禁止だと言っている
- だから、Aを禁止するなら、Bも禁止しなければならない。
- しかし実際多くの人はAだけを禁じ、Bについては容認している。
- だから、Aの禁止令も絶対化するのではなく、時代状況に合わせて理解すべきである。
既に確認した通り、創世記の考察において、Aと合わせて取り上げられたBの事柄は、聖書的な文脈を考慮せずに取り上げられていましたが、同じような論法とBの取り上げられ方が、ローマ1章の考察でも出てきます。
ですので、この点に注意をしながら本記事を読み進めていただくと、論点が明確に理解しやすくなると思いましたので、予めお伝えをさせていただきました。
レビ記の規定―レビ18:22、20:13
テキストの解説
「あなたは女と寝るように、男(ザーカル)と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。」(レビ18:22)
「男がもし、女と寝るように男(ザーカル)と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある」(レビ20:13)
レビ記の解説
レビ記は、創世記から数えて三番目に位置する書で、モーセの律法の一部です。モーセの律法とは、およそ3500年前に、神ヤハウェがエジプトから救出したイスラエルを祭司の王国とするため、モーセを通してお与えになった613の法律全体を意味しています。
モーセの律法は、出エジプト記~申命記までの四つの書に記されており、レビ記はその一部で、主に祭司職に関する規定が多く含まれています。
テキストの分析
レビ記18章と20章に記されたこれらの同性愛禁止令は、同性愛者たちにとっては「恐怖のテキスト」と呼ばれており、「ここには間違いようなく明白に男と男の性行為が断罪されている」とよく言われます。まずは、テキストの内容を整理していきます。
(1)18章・22章で共に命じられているのは、「男が女と寝るように男と寝るなら、それは忌みきらうべきことなので行ってはならない。」というものです。「女と寝るように」とは男女の性的な関係を表していますので、「女と寝るように男と寝てはならない」とは、男性同士での性的な関係を禁じていると理解するのが自然な解釈となります。
※「女と寝る」の意味に関する補足として、当時の時代背景から、性的な関係とは基本的にペニスの貫通を伴う性行為を意味するものだったようです。(65項)
(2)18章と20章で「男」と訳されているヘブル語の「ザーカル」は、性別上の全ての男性を表す言葉であり、身分による区分けはありません。ですからここでの禁止令は、相手がいかなる身分であろうとも、男性同士で女と寝るような行為をしてはならない、という意味になります。
(古代の中近東の他の国の法律では、たとえ男同士であろうと、相手の男性の身分が低い場合は、同性愛行為として断罪されることはありませんでした。しかし、レビ記の場合は、相手の身分に関係なく断罪しているという点で、周辺国の法律とは異なっています。)
(3)20章13節では、「『ふたり』は忌みきらうべきことをした」「『彼ら』は必ず殺されなければ・・」という表現によって性行為を行った双方の男性が断罪されています。したがって、ここでの禁止令は、「相互の同意の元で行われた同性愛行為」を前提としていたと考えられます。
(4)「忌みきらう」(ヘブル語:トエーバー)とは読んで字のごとく、非常に強い宗教的忌避を示す表現です。
結論への道筋
レビ記の禁止令に対する、「虹は私たちの間に」の著者である山口氏の見解は、次のようなものです。
- この禁令は、イスラエルの土地を所有する家父長男性に向けられているので、そうでない男性については何も言っていません。
- 家父長男性が同性と性交する場合でも、禁じられているのは相手の男の人が「被征服・従属・下位・受容」という役割を担う性交です。つまり、相手に「女の役割」をさせる性行為のことです。そうでない性交、例えば平等で相互的な関係で行われる性交について何も言っていません。
- 従って、今日の男性同性愛者が「平等で相互的な関係」で性交を行う限り、このテキストを根拠にして「聖書によれば同性愛は罪」と言うことはできません。(62項)
以上のような論理展開によって、山口氏は、レビ記のテキストを同性愛断罪の根拠として取り上げることはできないと主張しています。しかし私から見ると、その山口氏の主張には重大な盲点があります。そこで、山口氏がこのような結論に至った根拠について説明をしながら、順を追ってそれらの主張に答えていき、結論へと向かっていきたいと思います。
イスラエルの家父長男性だけに対する禁令か
山口氏の見解
山口氏は、レビ記の禁止令は「イスラエルの家父長男性だけに向けられたものであって、そうでない男性については何も言っていない」と説明しています、その理由は次の通りです。
律法は基本的に、イスラエル「男性」すなわち自由人で土地を所有する家父長を対象にして語りかけます。女性」・未成年男女・奴隷男女・居留外人男女・貧乏人男女については、律法では二人称で語りかける事はまずなく、まれに三人称で言及するだけです。この箇所でも、「あなた」として語りかける対象は「男性」です。(67項)
True Ark の見解
イスラエルの律法全体は、「明らかにイスラエル家父長男性だけ」でなく、イスラエル全体に対して語りかけています。例えば、かの有名なモーセの十戒の一部を見てみましょう。
「3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト20:3-4)
引用箇所をはじめ、十戒では「あなた・・」という二人称での呼びかけが繰り返し用いられていますが、そこでの規定は間違いなくイスラエル全体に対して語りかけられています。もしもここでの「あなた」が家父長男性だけに適用されるのであれば、家父長男性は偶像礼拝禁止だが、そうではない女性や子供たちは偶像礼拝をしてよい、というおかしな律法になってしまいます。
イスラエルの律法が家父長男性だけに語りかけているように見えるとしても、その理由は家父長男性に家族の頭としての権威があり、女性や未成年の男女などの他の家族の成員を代表しているからだと考えられます。
神の創造の秩序においては、女の頭は男とされており、最初に創造された人間もアダムでした。アダムに善悪の知識の木からは食べてはならない、という禁令が与えられたのも、エバが創造される前でしたが、その禁令はアダムを代表として、エバにも適用されたのです。(創世記2章)
ですからレビ記の18・20章の禁止令も、当然イスラエルの全ての男性に適用されたと考えるべきです。
「平等で相互的な関係」は罪ではないのか
山口氏の見解
山口市の見解は、ここでの禁令「女と寝るように男と寝てはならない」の意味は、男性同士の「性的な関係」ではなく、「男に女の役割をさせること」であるというものです。
ここでの「男性」が禁じられていることは、性交でどのような身分の男に対しても、「女性の役割」をさせてはならないということです。相手の「男」が自分と同じ身分の「男性」であればもちろんのこと、たとえ未成年・奴隷・居留外人・貧乏人の「男」であっても、誰であろうと「男」を性交相手にして「女性の役割」をさせてはならない、ということになります。(68-69項)
そのような結論に至った理由については、次のように説明しています。
「ミシュケベー・イッシャー」という表現を用いて18章と20章の両方で禁じられている事柄、それは、男性が「性交で女性を知る」という経験を、「男(ザーカル)」を相手にして経験してはいけないということになります。
これを言い換えると、「男(ザーカル)」を相手に性交することで、その「男」に性交における「女性」の役割を引き受けさせてはならない、ということになります。では、「男」が経験させられることになってはならない、性交における「女性」の役割を担うこととは何を意味するのでしょうか?
それは、「被征服・従属・下位、受容」の役割を担う、ということです。古代文献を見る限り、性交とは基本的にペニスの貫通によって「男・上位・行為者」が「女・下位・受容者」に対して行うことでした。ですから、性交で「女性の寝ること」が意味することは、「女・下位・受容者」としての役割を引き受けることで、この役割を男が担うということは言わば「本当の男」ではなくされることなのです。(65-66項)
要約すると、古代の歴史的な背景によれば、「男が女と寝る」ということは、ペニスの貫通によって、上位の行為者である男が下位の女に対して行うことを意味するから、レビ記の禁止令も、そのような意味に限定して考えるべきである。つまりレビ記の規定は、相手の男に「下位を意味する女性の役割」を担わせることのみを禁じるのであって、平等な関係における同性同士の性的な行為を禁じているわけではない、ということなのです。
True Ark の見解
山口氏の見解は、「平等で相互的な関係」に基づく同性愛行為が、具体的にどんな事柄を意味するのかについて、不明瞭な点を残しています。つまり、(1)「たとえペニスの貫通があったとしても、相互の同意があれば、同性同士の性行為は問題無い」という意味なのか、あるいは(2)「ペニスの貫通をすれば相手に「女性の役割」をさせることになるから、それ以外の方法で同性愛行為を行えば問題無い」という意味なのかがはっきりしないのです。
そこで、山口氏が語った「平等で相互的な関係」の意味が、(1)であった場合と、(2)であった場合において、それぞれの見解が妥当なのかどうかを、考えてみたいと思います。
(1)相互の同意さえあれば問題はないのか
仮に「相互の同意があれば、同性同士の性行為は問題無い」とされる場合、その理解はレビ記の禁令と矛盾してきます。なぜなら、レビ記の禁令は、はじめから相互的な性行為を前提として語られているからです。そのことは、禁令で処罰される対象が、同性愛行為を行った「双方」を含んでいることから読み取ることができます。
例えばモーセの律法では、男性が無理やり女性を犯した場合、女性が叫んで助けを求めれば、その女性の側は罪に問われず保護されました。つまり律法によれば、同意に基づかない性行為においては、服従させられた下位の者は処罰されなかったのです。(申命記22:23-27)
しかし、レビ記18.20章の禁令では、同性愛行為を行った男性の双方が、罪に問われて処罰の対象となっています。このことから、この禁令が平等な関係を前提としていたことがわかるのです。
さらに山口氏の古代文献に関する調査によれば、「性交とは基本的にペニスの貫通によって『男・上位・行為者』が『女・下位・受容者』に対して行うこと」でした。そうであれば、レビ記の規定で禁止された行為も、男性同士のペニスの貫通を伴う性行為だったことになります。すると、「相互的な関係であればペニスの貫通があっても問題無かった」という解釈は、成り立たないことになるのです。
(2)ペニスの貫通を避ければ問題無いのか
レビ記の禁令は「平等で相互的な関係」には適用されないと理解する山口氏の主張が、「相手に女性の役割をさせるペニスの貫通を避けて、それ以外の方法で同性愛行為を行えば問題無い」という意味である場合はどうでしょうか?
論点を明確にするために、少し踏み入った話をしますが、相互的な男性同士の性的交わりでは、多くの場合、どちらかが「女役」となってペニスの貫通が行われます。(そうでない場合でも、大抵の場合、双方が射精に至ります。)ですから、レビ記の禁令を「ペニスの貫通さえ避ければ問題ない」と理解する場合、結果的に多くの男性同性愛者の性行為のあり方を禁じることになります。
また、レビ記の禁令がこのような意味であった場合、古代のイスラエルでは、「ペニスの貫通は死刑だが、それ以外の方法での同性愛行為は問題が無かった」とすることになりますが、律法の文脈を考慮すると、それは不自然な解釈です。
「寝る」と訳されるヘブル語「シュケベー」は、聖書の中で性的交わりを指す用語として度々用いられており、以下はその一例です。
「夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除き去りなさい。」(申命記22:22)
では、もしもここでの姦淫禁止令における「寝る」という表現を、「ペニスの貫通行為のみ」に限定した場合はどうなるでしょうか?たとえ既婚の女性が別の男性と性的な関係を持ったとしても「ペニスの貫通」さえ無ければ罪には問われない、ということになってしまいます。しかし、当然ながらこれはおかしな解釈です。
たとえペニスの貫通が無くても、既婚女性が別の男とそれなりの関係に発展すれば、当時のイスラエルでは裁きの対象となったはずですし、現代の日本人の感覚としてもそうでしょう。
ですから、レビ記18:22の禁止令における「寝る」という表現は、基本的にはペニスの貫通を意味するとしても、本質的には性的な交わり全般を表すと理解するのが、最も自然で道理にかなった解釈だと言えるでしょう。
結論
これまでのテキストの考察から、次の三つの点を、聖書的文脈から明らかにしました。
- レビ記の規定における「あなたは~」という呼び掛けは、基本的にはイスラエル全体に対して語りかけている。
- 18・20章の禁止令は、身分に関係なく、全ての男性が対象となっている。
- 「女と寝るように男と寝てはならない」の「寝る」という表現を、「ペニスの貫通のみ」に限定して考えることは、聖書的文脈や一般常識を考慮すると、不自然な解釈となる。
結論として、以上の全てのテキストの考察を踏まえると、やはりレビ記18・20章は、イスラエルの全ての男性に対して、同性愛行為を全面的に禁止した命令だと考えられます。
パウロの悪徳リスト―第一コリント6:9
テキストの解説
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者(マラコイ)、男色をする者(アルセノコイタイ)、10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(コリント人への手紙第一6:10)
第一コリント~書簡の解説
新約聖書の中には、同性愛者断罪の根拠として挙げられる聖句が三箇所ありますが、どれもパウロの手紙に含まれており、ローマ人への手紙、コリント人への手紙第一、テモテへの手紙の中に記されています。
ここで取り上げるのは、第一コリントの書簡となりますが、コリントは当時エーゲ海西岸にあった有名な港町で、貿易主要路として栄えており、民族的・宗教的に多様な人々が行き交っていました。コリントの風潮もあってか、その都市の信徒たちの間ではたくさんの問題が起こったため、パウロは手紙を通して、クリスチャンとしての正しい歩み方について多くの言葉をもって実際的な助言を与えます。
コリントの信徒への手紙1が書かれたのは、紀元53-55年だと考えられており、パウロが複数回に渡ってコリントの諸教会とやりとりをした手紙の一つです。
テキストの意味
上記で引用した第一コリント6章の箇所は「悪徳リスト」と呼ばれるものでおり、これらの悪徳リストに挙げられている行為を行う者は「神の国を相続することができない」とされています。
このリストの中で同性愛断罪の根拠として挙げられる箇所は、9節で挙げられる「男娼となる者」(ギリシャ語:マラコイ)「男色をする者」(ギリシャ語:アルセノコイタイ)ですが、この禁止令は多くの同性愛者にとって「神の国を相続できるかできないか」に関わる極めて重要なテーマとなりますので、これらの用語の正確な意味を理解することは、大変重要な問題となってきます。
同じ「男色をする者」という表現は、第一テモテ1:10の悪徳リストにも出てきますが、同じ「アルセノコイタイ」という語が用いられていますので、本記事では第一テモテの説明は省きます。
結論への道筋
「マラコイ」「アルセノコイタイ」共に、歴史的に多様な解釈・翻訳がなされてきたギリシャ語です。現代の大半の聖書では、「男娼」「男色」という訳が定着しており、日本語聖書の代表的な訳でも、上記で引用した新改訳と同じように「男娼、男色をする者」という表現で一貫して訳されています。ただし、この語に対する解釈の議論が無いわけではないようです。(確認した日本語聖書は、新共同訳、口語訳、文語訳、岩波翻訳委員会訳、前田訳、塚本訳)
「アルセノコイタイ」という言葉は、パウロのテキスト以前には他の文献での用例がありませんので、パウロの造語だと見る学者も少なくはありません。テキストの解釈には二通りの立場があり、一つ目は言葉の語源から推察して「男の同性間性交」を意味すると解釈する立場、二つ目は他の文献における実際の用例から推察して「相手の性を不正に用いる経済的搾取者」と解釈する立場です。
「マラコイ」という言葉は、「アルセノコイタイ」と比べると聖書や他の古代文献での用例が多く、その基本的な意味合いははっきりしています。「マラコイ」が人以外に対して用いられる場合、「やわらかい」「しなやかな」という意味合いがありますが、人に対して倫理的文脈で用いられる場合は、男性に対して「女々しい」「自制心の無い」というようなマイナスメージをもたらします。
山口氏は争点となるこれら二つの用語の正確な意味を「語源的な視点」と「歴史的な視点」の双方から考察した上で、次のような結論に至っています。
- マラコイの意味:「男娼」ではなく、「自制力のない男」「女々しい男」を意味する。
- アルセノコイタイの意味:「男色をする者」というよりは、経済的搾取・不正の形で男を相手として性交する男性を指すが、「断罪の理由は経済的搾取・不正」である。(137項)
ここでの山口氏の結論については、私も大まかには似たような理解に辿り着きましたが、以下にその理由を、順を追って解説していきます。
アルセノコイタイの意味とは
アルセノコイタイの解釈の歴史
「アルセノコイタイ」は、歴史的に多様な解釈・翻訳がなされてきたテキストです。3~4世紀頃には、この語は「少年愛者」と訳されましたが、その後20世紀になるまでは、様々な性的不道徳と混同されて訳されてきました。
そして、20世紀後半になると「性的倒錯者」「同性愛者」と訳されるようになり、以後はそのような解釈で定着してきています。
語源から探る
「アルセノコイタイ」(arsenokoitai)は、パウロの手紙で初めて登場する言葉であり、「アルセノコイテース」の複数形です。そして、「アルセノコイテース」は、「アルセン」と「コイテース」の合成語であると理解されますが、それぞれの言葉にはどんな意味があるのでしょうか?
「アルセン」とは男を意味します。「コイテース」には「横たわる」という意味があり、「性交」の遠回しな表現として、聖書の中で繰り返し用いられています。そして、この二つの用語をギリシャ語の文法を踏まえて組み合わせると、「男を対象として性行為をする能動的行為者」を意味するようになるのです。
本記事でも既に解説したレビ記18:22、20:13の禁令についても、ギリシャ語で書かれた七十人訳聖書を見ると、これと全く同じ用語「アルセン」と「コイテース」が用いられています。
- レビ18:22 meta arsenos ou koimethese koiten gynaikeian
- レビ20:13 koimeth meta arsenos koiten
ですから、パウロが七十人訳聖書におけるレビ記の禁止令を念頭に、全く同じ言葉を組み合わせた「アルセノコイタイ」という言葉を用いて、男性の同性間性交を禁じたと考えることは、理に適った一つの解釈だと言えるでしょう。
しかしこの点については、もう一つの視点「他の文献での用例」も考慮に入れる必要があります。
他の古代文献での用例
現存するテキストで「アルセノコイタイ」や「アルセノコイテース」が用いられている文献は決して多くはありませんが、大抵の場合は、「悪徳リスト」のようなところに登場します。以下はその用例です。
「種を盗んではなりません。・・
アルセノコイテインをしてはなりません。
情報を偽ってはなりません。殺してはなりません。」・・・(シビルの託宣 2.70-77)「殺人者たちよ、知りなさい。この世を去った後、罰は倍になって降りかかるのです。
毒を盛る者、ペテン師、盗賊、詐欺師、アルセノコイテース、盗人、そして全てのこういう類の者たち、・・・だからエフェソの人々、生き方を変えなさい。(2世紀の「ヨハネ言行録」36 [Hennecke-Schneemecher])
これらの書物における用例を考察すると、アルセノコイタイが「偽り」や「盗み」などと同系統の罪として描かれていることがわかります。また、これらの書物の別の箇所には性的な罪のリストがありますが、そこにはアルセノコイタイは用いられていないようです。(128項)
一方、他の文献でアルセノコイタイが性的な罪との関連で用いられている場合もあります。それは、ヒッポリュトス(三世紀初)が、グノーシス神話の悪魔ナアスについて述べる所ですが、そこでは『悪魔ナアスが「アダムを少年のように(奴隷のように)所有した」ので、婚外性交と「アルセノコイタイ」がこの世に入り込んだ』とされています。
以上の用例からわかることは、「アルセノコイタイ」という用語は、男性同士の性的交わりの意味合いを含みつつも、そこに搾取・不正の罪があることを前提として用いられていた様子が伺えます。
マラコイの意味とは
マラコイの解釈の歴史
「マラコイ」は、元々人に対して用いられる場合に「女々しい」「自制力を欠いた」「堕落した」という意味合いで用いられていましたが、四世紀には「男娼」と解釈・翻訳されるようになりました。
しかし12世紀になると、教会の禁欲的な傾向の影響で「マスターベーション」と解釈されるようになり、それが近年まで続きました。そして、20世紀後半になると、「同性愛」や「男娼」と訳されるようになって、今に至ります。
倫理的・歴史的文脈におけるマラコイの意味
「マラコイ」の対象が物である場合は、「柔らかな・しなやかな」というプラスのイメージをもたらしますが、倫理的な文脈で人に対して用いられる場合は、「自制欠落」「不遜」に関連する過度な欲望や悪全般を指しました。
古代文献全体を通しての「マラコイ」の用語の考察については、以下に本の内容を直接引用します。
古代文献全体を通してマラコイは堕落と贅沢な生活を愛する男たち、すなわち酒を飲み過ぎ、性交を行いすぎ、グルメな食事のためにコックを雇うような生活をする男たちを指します。マラコイという言葉が性的な事柄で述べられる時、性交に興味があり過ぎる男性一般を指して・・・用いられました。
現代では女性との性交に強い興味を持ち実践することが「男らしさ」の象徴であるかのように言われることがしばしばありますが、古代においてはそれはむしろ男らしい自律性を欠いた弱いこととして見られ、その意味で「男らしくない男=マラコス」とされたわけです。(134項)
このような「マラコイ」の歴史的な用例を考慮すると、この語を「男娼」という限られた意味合いで解釈するよりも、「自制の欠落によって過度な欲望にふける男」と解釈した方が、より正確な訳だと思われます。
結論
パウロの悪徳リストに挙げられた「男娼となる者(マラコイ)、男色をする者(アルセノコイタイ)」が、それぞれどのような意味を持つのかについて考察してきましたが、結論としては次のようにまとめることができると思います。
「アルセノコイタイ」は、語源的な視点から見れば、明らかにレビ記18,22章を念頭に置いた同性愛行為を意味しています。しかし、他の古代文献の用例を踏まえると、下位の者に対する支配・搾取の罪を前提とした行為を指していることが伺えますから、客観的にはどちらの可能性も無にはできないように思えます。
「マラコイ」については、聖書や他の古代文献における用例が豊富にありますが、それらの用例を踏まえると、「男娼」という限定的な解釈をするよりも、「自制の欠落によって過度な欲望にふける男」と解釈する方が妥当だと言えそうです。
以上の点から、第一コリント6章や第一テモテ1章におけるパウロの悪徳リストは、同性愛断罪の「可能性」を示す聖書的な根拠として挙げることはできるものの、それを「確かな」根拠として取り上げることは難しいと言えそうです。
パウロの断罪―ローマ1:26-27
テキストの解説
「26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」(ローマ1:26-27)
ローマ1章のこの聖句の吟味は、本テーマにおいてとても重要な意味を持ちますが、それは次の理由からです。
- この聖句は、同性愛否定、同性愛者差別の根拠として最も多く用いられてきた聖句です。
- 聖書の中で、女性の同性愛者に言及している唯一の箇所です。
- 現代のクリスチャンに適用される神の基準は、基本的に新約聖書の中に見出されるものですが、その新約聖書の中で、最も同性愛否定の確かな根拠として挙げられるのが、この聖句です。
以上の点を念頭に置きつつ、テキストの解説を進めていきたいと思います。
ローマ書~書簡の解説
新約聖書が書かれた紀元1世紀、ローマ帝国が支配していた時代において、ローマはその帝国の首都でした。書簡が書かれたのは、紀元56-57年頃だと考えられています。ローマの教会は、パウロの宣教によって設立された教会ではありませんでしたが、パウロはいずれ訪問しようとしていた教会に対して、様々な必要のため、前もってこの手紙を書き送りました。
ローマ書は、パウロの数ある書簡の中でも、神学的に最も重要な書だと考えられており、自然による啓示、罪の普遍性、義認、信仰、原罪、などの重要な教理が体系的にまとめられています。かつてマルティン・ルターも、「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と語り、この書簡の重要性を認めていました。
テキストの意味
パウロはローマ人への手紙の中で、どのような文脈において同性愛行為を否定したのでしょうか?ローマ1章の18節~32節を読むとその流れがわかりますが、それは「偶像礼拝者への裁き」に関する文脈であることがわかります。
「1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。・・
・・26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」
パウロはまず、創造主なる神の実在は創造物を通してはっきりと認められるのだから、偶像礼拝者には弁解の余地は無い、と語ります。続けて、彼らの行いに対する神の裁きとして、彼らが恥ずべき情欲に引き渡されたと説明し、その結果として生じているのが、同性同士の性的行為だと主張しているのです。
古代社会において一般的には、男性が男を性交の相手にする場合、相手の男の人の身分が低ければ、その人は社会身分的ジェンダーにおいて「女」と同等であるゆえに問題とされませんでした。しかし山口氏が著書の中で説明している通り、パウロは、女性同士・男性同士の性愛が「恥ずべき情欲・自然ではない」とし、身分に関わらず全ての同性愛行為を否定しています。(149項)
このように、同性愛行為を社会的立場(身分)によって考えず、あくまで身体的ジェンダー(性別)の境界線の視点で捉えるパウロの考えは、レビ記における同性愛禁止令と共通しています。
結論への道筋
ここでのパウロのテキストの解釈については、最終的に山口氏の結論と私の結論は異なるものとなりました。著書の中で明確にされた山口氏の結論とは、要約すれば次のようなものです。
- パウロは確かに身体的ジェンダー境界線に固執し、同性同士の性行為を「反自然」であるとして厳しく断罪しています。
- しかしそれだけでなく、用語の分析によれば、同性間か異性間かに関わらず、男性が強い愛情をもって相手に向かう性交や、平等で相互的な関係で行われる性交も「反自然」な性交です。
- したがって同性愛だけでなく、男性が強い感情をもって向かう性交や、平等で相互的な性愛・性交も全て一緒に断罪するのでなければ、その一部だけを取ってここのテキストを根拠に「同性愛は罪」と言うことは、時代錯誤の誤読であり不適切です。
以上に挙げたローマ1章に対する山口氏の考察について、重要な争点と言えるのは(2)の部分です。山口氏は、ローマ時代の用語の分析から、パウロがどのような意味で「反自然」という言葉を使ったのかを断定していますが、そこには聖書的文脈からの考察が欠落しています。パウロがどのような意味でその言葉を用いたか、パウロが「自然な性交」をどう理解していたかは、聖書の他のパウロ書簡の内容も踏まえて考えていく必要があると言えるでしょう。
- 用語の分析は何を示すのか?
- 他の書簡の内容も踏まえると、パウロ自身はどんな性のあり方を自然だと理解していたのか?
- パウロが断罪したのは、あくまで同性愛のみなのか?
これらの争点に注目しながら、結論を考えていきたいと思います。
用語の分析―「自然な用」とは
自然な使用(クレーシス:chresis):日本語では「関係」と訳されていますが、「使用」を意味する言葉であり、これが性的な意味で用いられると、「性交」を指すことになります。(誰かを性的に使用する事としての)
山口氏は、当時のギリシャ・ローマ文化の時代における「自然な用」が意味する性交のあり方について、次のように著書の中で説明しています。
ギリシャ・ローマ時代の支配的エリート男性たちの文献によれば、自然な(天与の、正しい)性交の概念において、鍵となる重要なことは熱情の制御、「無関心」による自制的な「使用」です。そして、父権制的・二元論的な「男・上位・行為・支配」対「女・下位・受容・従属」の関係で行われます。こうして、「行為者」である男性が、情熱や関心を持たずに理性的に自制をもって所有物を活用して楽しむために、自分の所有物である男女を「使用」して行う事、それが「自然な性交」です。(155項)
つまり、当時の文化圏の支配的エリート男性たちによる「自然な用」の定義は、あくまで「情熱や関心を持たずに理性的に自制をもって」行うものであるため、同性愛・異性愛問わず、「平等で相互的な性愛・性交」は全て「反自然」とみなされた。
それならば、ギリシャ・ローマ文化の中で育ったパウロが、ローマの信徒に向けて書いた手紙の中にある「自然・反自然な用」という言葉も、同じような意味で用いていたはずである。したがって、パウロが断罪したのは、同性愛行為だけではなく、当時「不自然な用」と見做された「平等で相互的な性愛・性交」も含まれた、というのが、山口氏の論理展開です。
聖書的文脈―パウロが考える性のあり方
既に説明した通り、パウロがどのような性関係を「自然」だと理解していたかは、他のパウロ書簡で示されたパウロの言葉も踏まえて解釈する必要があります。
聖書が教える男女の性愛
まず第一に、本の中で説明されているギリシャ・ローマ文化における「自然な用」のあり方は、聖書の教えとは全く相容れません。聖書は結婚した男女の相互的な性愛を進めており、情熱をもって配偶者を愛するよう進めています。
キリストが教会を愛したように
「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)
「キリストが教会を愛したように、夫は妻を愛するべき」これが、パウロが考える正しい妻の愛し方です。そしてそのキリストは、教会のために「ご自身を捧げる」ことによって、その最大の愛情を示されたとパウロは説明しているのです。
キリストが教会を情熱的に愛され、今も変わらず愛されていることに議論の余地はありません。ですから、パウロの理解によれば、夫は妻を「情熱的」に愛するべきであり、それは夫婦間の性行為においても適用されると見るべきです。
既婚した男女間の性行為は情欲ではない
「1 さて、あなたがたの手紙に書いてあったことについてですが、男が女に触れないのは良いことです。2 しかし、不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。4 妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。5 互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。 あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。6 以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。
8 次に、結婚していない男とやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。9 しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです。」(第一コリント7:1-9)
この聖書箇所を読むと、手紙の宛先であったコリントの教会の間で、どんな問題があったのかがわかります。この助言の背景には、おそらく不品行の蔓延の問題があり、自制ができない未婚の信徒たちの中に、婚前交渉を行う者たちがいたのでしょう。
聖書は一貫して婚前交渉を認めていないため、同じ性行為でも、未婚の男女が行えば不品行・情欲となります。その理由は、結婚に関する神の定めを破ってまで、欲望を満たすことを優先させる貪欲が関係しているからです。
一方、既婚の男女の性行為については、パウロはむしろこれを奨励しています。ですから、現実的な問題として、未婚の男女が自制心の未熟さのために繰り返し罪を犯すのであれば、(可能であれば)結婚をして、配偶者と堂々と性行為を行ったほうが遥かに良い、というのがパウロの見解だったのです。
「3 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。4 妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」
さらにパウロはこの箇所で、既婚した男女の性行為の捉え方について、もう少し具体的な助言を与えています。それは、既婚した男女の性行為においても、それを自己愛からではなく、配偶者への利他的な愛によって行うように、という勧めです。また、利他的な愛を示すべきなのは、片一方の側だけではなく、夫婦の双方が行うべきであることが強調されています。ですから、パウロにとっての「自然な性のあり方」は、明らかに男女の夫婦間における平等で相互的な愛だったと言えます。
したがって、以上の点を踏まえると、ローマ1章26-27節でパウロが断罪したのは、あくまで同性同士の性行為にのみ言及したものであったと考えられるのです。
最後の補足として、パウロが宣教して設立されていった多くの教会の信徒は、社会的弱者、裕福でない人が多数を占めていましたが、その状況は、パウロの宣教によらずに設立されたローマの教会でも同じでした。ですから、パウロが一世紀の信徒に向けた手紙を書く時に、当時の支配的エリート男性が共有していた非聖書的な価値観に基づいて言葉を選んだとは到底考えられません。
結論
パウロは確かに、ローマの信徒への手紙の中の偶像礼拝者への裁きの文脈で、同性同士の性的な行為が神の基準に反するものであることを示しました。さらに彼は、その基準をあたかも当然のこととして語っていますが、それはレビ記の中で示された禁令に基づくものだと考えられます。
また、パウロはレビ記では言及されなかった女性同士の性行為についても語り、男女関係なく、そのような行為が罪であることを明確にしました。
そして、パウロが言及したのはあくまで同性愛行為に対してであり、情熱を持って相互的に愛する既婚者の性行為について言及したのではないことは、他のパウロ書簡の言葉を考慮すればはっきりとわかります。
ですから、ローマ1:26-27でのパウロの断罪は、やはり同性同士の性行為全般に対するものであり、それ以外の解釈の余地は無いことがわかります。
では、モーセの律法で示されたレビ記の基準を、なぜ律法が終わった新約以降の時代でも適用できるのでしょうか?また、そもそもパウロ一人が同性愛を断罪したからといって、それをクリスチャンの普遍的な定めと考えるべきなのでしょうか?
これらはテキストの考察というよりは、聖書全体をどう理解するかの「聖書観」の問題となってきますので、続く以下のテーマでしっかりと考えていきたいと思います。
聖書は神の言葉か?人間の言葉か?
これまでのテキストでは、同性愛断罪の根拠となっている聖句を一つ一つ取り上げ、それぞれの聖句の理解に焦点を当ててきました。そしてここからは、これまでに取り上げなかった「聖書観」と「聖書の体系的理解の方法」について取り上げていきたいと思います。
自由主義的な聖書観
本の中では、創世記とレビ記を扱った項目の中で、次のような著者の主張がありました。
レビ記18章と20章は、同じ事柄を問題にしていますが、・・・カテゴリーの根本的な組み替え・順序変更・除去・加筆などがあり、・・・社会・政治的な状況の変化に応じて、清浄・不浄を巡る考えも性的関係についての見方も変化した・・と見ることができます。そしてこの事はとりもなおさず、『生命の神は言われる』として告げられている言葉は、それぞれの時代状況の中でそのように解釈した人間の言葉に他ならないということをも示しています。」(70-71項)
「聖書の創造物語も、そのように太古の時代から語り継がれた物語が土台になって、書き記され編集されたものと考えられます。このような物語は「神話」と呼ばれます。・・長い年月をかけて、人々の間で少しずつ形成され、時代の流れや状況の変化とともに様々な変遷を経て語り継がれてきた、「意味作り」の創作です。(86項)
これらの言葉から、著者は次のような考えを持っていることがわかります。
(1)聖書には、「神の言葉であるかのように書かれた」人間の言葉・命令が含まれている
(2)聖書には神話として記録された箇所があり、創世記1~3章は神話であり歴史的事実ではない。
このような主張は、聖書全体を神の霊感を受けた言葉と認めない自由主義的な立場でよくなされているものですが、その理解はイエス・キリストを救い主として信じる信仰と両立するのでしょうか?その妥当性や問題点について、これから考えてみたいと思います。
「聖書は神の言葉だ」とはどういう意味か?
神の霊感に導かれて書かれた
「聖書を誤り無き神の言葉」だと信じる立場を「正統主義」と言いますが、誤解を避けるためにより正確にこの信仰を定義するならば、「著者が神の啓示を書き記す際に、誤ちを犯さないよう神の守りがあった」という意味となります。
また、霊感による完全性が保証されているのは、聖書の「原典」に限定されます。とはいえ、今日私たちが読んでいる聖書の元となる定本は、原典の内容がほとんど正確に再現されているため、安心して読むことが可能です。
それでは以下に、関係する聖句を挙げていきます。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:17)
ここでの「聖書」の意味は、旧約聖書全体を表しています。「霊感による」(ギリシャ語:セオプニューストス)という表現から、旧約聖書全体が、神の霊による導きによって書かれたことが保証されています。
「預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(第二ペテロ1:21)
この聖句で使徒ペテロは、聖書の預言が人ではなく神の意志によるものであり、まるで船が風に流されるかのように、著者が「聖霊に動かされ」て書いたものであることを明らかにしています。
「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(第二ペテロ3:16)
ここでペテロは、「聖書(ギ語:Graphe)の他の箇所の」と言うことにより、パウロの手紙を聖書の一部と認めていることを明らかにしています。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:25)
新約聖書に含まれるあらゆる書簡は、イエスを目の当たりにした第一世代のクリスチャンたちによって書かれました。そして、彼らがイエスの言葉を正しく記憶・理解し、書簡にまとめることができたと信じる根拠は、このイエスの聖霊の約束にあります。
聖書の信頼性
このように、新約聖書に記録された使徒たちの証言によれば、聖書全体は神の霊の導きによって書かれた書物であることが明らかにされています。
また、これら使徒たちの証言が、キリスト教の歴史の中で重要な教理の正当化のために都合の良いように改変されてきた、ということは全くありません。新約聖書は、その内容の信頼性・正確性が最も保証された古代文献だからです。この点について詳しくは「写本の信頼性―旧新約聖書の原典は正確に書き写されてきたのか?」で取り上げています。
そして、使徒たちや初代の弟子たちが口を揃えて聖書の霊感性を証言したという事実は、3年以上もの間、寝食を共にして彼らを教え続けたイエス自身も、聖書に対して同じような見方を持っていた、ということを明らかにしています。
「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。 35 もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、」(ヨハネ10:34-35)
「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17-18)
ですから、もしも私たちがイエスを「救い主」と信じるならば、イエスが証言した通りに、聖書全体を神の言葉として信じる必要があることがわかります。その中間はないのです。
誰の言葉として語られているか
聖書が「神の霊感によって書かれた」ことは、必ずしも聖書の全ての言葉が「神による直接的な言葉」だという意味ではありません。神の霊感によって導かれた以上、そこには真実が書かれているという保証はありますが、どのような言葉として書かれたかについては、文脈を考慮して判断する必要があります。
つまり、「神が語った言葉」として書かれているのか、人が語った言葉としてなのか、悪魔が語った言葉としてなのか、文脈を抑えて判断する必要があるのです。一例として、創世記の次の箇所を確認しましょう。
「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、 2 アブラハムは、自分の妻サラのことを、『これは私の妹です。』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。」(創世記20:1-2)
アブラハムの妻サラは、彼の異母妹でもあったので「これは私の妹です」と言ったのは事実でした。しかし彼は、サラが妻であることについては触れないことによって、あえて誤解を招く表現を用いました。では、聖書が神の霊感の言葉であるために、ここでのアブラハムの行動が正しいとされるのでしょうか?そのようなことはありません。
ここでのアブラハムの言葉は、あくまでアブラハムの言葉―つまり人間の言葉として記録されているのであって、それが正しい方法だったと聖書が保証しているわけではありません。
では、レビ記に記録された律法についてはどうでしょうか?山口氏は、「『生命の神は言われる』として告げられている言葉は、それぞれの時代状況の中でそのように解釈した人間の言葉に他ならない」と主張していますが、聖書の中で「主なる神は言われる」と書かれている場合は、文脈上、それは神が語られた言葉として見なければなりません。少なくとも、聖書はそのように読むよう要求しているのです。
ですから、「神は言われる」と書いてある以上、それは神が語られた言葉として書かれているのであって、その言葉が信頼に値するものであることは、イエス自身が保証しているのです。
神話としてか、歴史的事実としてか
「聖書の創造物語も、そのように太古の時代から語り継がれた物語が土台になって、書き記され編集されたものと考えられます。このような物語は「神話」と呼ばれます。・・長い年月をかけて、人々の間で少しずつ形成され、時代の流れや状況の変化とともに様々な変遷を経て語り継がれてきた、「意味作り」の創作です。(86項)
神の霊感を受けた聖書は、創世記1~3章に記録された天地創造と堕落の記録を「神話」として語っているでしょうか、それとも「歴史的事実」として語っているのでしょうか?この点についても、イエスや弟子たちの証言を確認してみましょう。
「1 アダム、セツ、エノシュ、2 ケナン、マハラルエル、エレデ、3 エノク、メトシェラ、レメク、4 ノア、セム、ハム、それにヤペテ。」(第一歴代誌1:1-4)
「4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」(マタイ19:4-5)
「ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。」(ローマ5:14)
第一歴代誌は、紀元前5世紀に律法学者エズラによって書かれた可能性が高いと見られていますが、アダムからノアの三人の息子までの「系図」が記録されているという事実は、当時のユダヤ人が創世記の記録を歴史的事実と見做していたことの確かな証拠です。
マタイの福音書では、イエスが創世記2章の記録を、結婚の規定の根拠として取り上げています。間違いなく、イエスはこれを神話ではなく、歴史的事実と見做しているのです。
ローマ書では、パウロは人類の罪の元凶をアダムの違反だと説明しており、キリストの死による罪の贖いと密接に関係するものとして語っています。ですから、アダムの罪が単なる神話なのであれば、ローマ書における彼の神学は崩壊するのです。
このように、創世記の記録を神話と見做すことは、聖書の証言と完全に矛盾するものであり、聖書の否定以外の何物でもありません。
なお、聖書の信頼性をちゃんと説明するためには、さらに膨大な資料が必要ですが、最も重要な争点は「イエスをどのようなお方として見るか?」だと言えます。イエスが聖書全体の霊感性を認めていたことは明白な事実なので、そのイエスが永遠の昔から生きてこられた「神の子」であり、「道・真理・命」(ヨハネ14:6)であるならば、必然的に「聖書全体は神の霊感を受けた言葉だ」という結論に達するのです。
神の啓示―その意味を理解する
自由主義的な聖書観
「虹は私たちの間に」のレビ記の箇所では、次のような説明がありました。
「教会では聖書をそのまま『神の言葉』として読んできた伝統があります。しかし、人間は誰一人例外なく特定の歴史状況で生きる限界を抱えた存在であるということを認識するならば、聖書テキストの著者・編集者たちも、特定の歴史状況で限界を抱えていたということが何を意味するのかについて、きちんと向き合うことが必要です。そして、聖書に書かれている事柄をそのまま神の言葉として神聖な絶対的権威のある教えとして読むのではなく、信仰の先達による信仰証言・歴史遺産として受け止める必要があります。」(75項)
「聖書のテキストの何を「神の言葉」とし、何を時代・文化の影響下での「人の言葉」とするのでしょうか?その判断基準は何によってどこに置くのでしょうか?その判断基準は何によってどこに置くのでしょうか?聖書に絶対的権威を置く「アーケタイプ」として読むという姿勢の人々が、実際には多分に自分自身の無自覚な価値観・イデオロギーで聖書テキストを取捨選択している在り方、その曖昧さ、危うさを、真摯に省みる必要があります。」(77項)
以上に挙げた箇所で示された山口氏の主張を整理すると、次のようになると言えます。
- 聖書は、私たちと同じように特定の歴史状況の中で限界を抱えていた人々が書いた人間の言葉である。
- それゆえに、絶対的な神の言葉として受け止めるのではなく、あくまで先達の信仰遺産として、批判的に検証すべきである
- そもそも、聖書のテキストの何を「神の言葉」とし、何を時代・文化の影響下での「人の言葉」とするのかについては、誰も確かな答えを提供できない。
- だから、自分たちの神理解も絶対化せずに、先達からの信仰遺産と共に次世代へ継承していくべき。
これらの主張は、人間の視点で見れば、一見道理に適った主張のように聞こえますが、神の啓示とは何なのか?という側面で考えると、多くの問題があると言えます。以下にその理由を説明していきます。
誰の言葉かを文脈で識別する
聖書筆者たちは、山口氏が主張するように、「特定の歴史状況の中での限界を抱えていた」のでしょうか?答えは「YES」です。では、聖書全体は、歴史状況に制約された人間の言葉なのでしょうか?答えは「YES」と言える部分と、「NO」と言える部分があります。
繰り返しになりますが、聖書を普通に読んでいけば、それぞれの箇所が、「誰の言葉」として語られていたかは容易にわかります。
人間の言葉として書かれているものについては、当然のことながら、限界を抱えた人間の言葉であり、そのように見るべきです。しかし、神が語られたこと、天使が語ったこと、登場人物が聖霊に導かれて語っていることは、歴史的状況に制約された人間の言葉ではありません。それは歴史を超越した神からの啓示です。
歴史を超越した聖書の統一性
命の木と原福音
例えば、創世記2章には、エデンの園に置かれた「命の木」が登場します。アダムとエバは罪を犯したため、この木から取って食べることができなくなりますが、聖書の巻末の黙示録では、罪を赦される人類の最終的な希望として、ふたたび神のパラダイスにある「命の木」から食べることが許されるようになるのです。
このように、創世記3章で失われた命の木への道は、数千年の時を経て、黙示録で啓示される命の木への道の回復へと繋がっていくのです。
「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」(創世記3:24)
「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(黙示録22:2)
原福音―最初のメシア預言
他にも聖書で最初に登場する有名な預言で「原福音」と呼ばれるものが創世記3章15節にありますが、そこで示された内容も、イエス・キリストの十字架によって、また黙示録20章で龍が火の池に投げ落とされる場面によって見事に成就します。
「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3:15)
「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。」(黙示録20:10)
もしも、創世記の創造の記録が時代状況に制約された単なる人間の言葉なのであれば、このような歴史を超越した聖書の統一性はあり得なかったでしょう。さらに、他にも同じような事例を、聖書の中にいくらでも見つけることができるのです。
ですから、聖書預言の成就と、それに関わる全体の統一性は、聖書が全て同じ神の霊によって導かれて記されたことを明らかにしているのです。
「啓示」は普通に存在する
山口氏のみならず、自由主義的な見方で聖書を読む人々に共通して見られるのは、「啓示」に対する認識が薄い、ということです。学術的にテキストを理解しようとする多くの人に対して感じることは、そもそも「啓示」という現象自体をあまり信じていないように見えるのです。その結果、聖書を読んでも確かに神からの啓示があった、と捉えることができないので、それを人間の言葉と置換えてしまうのです。
この点について理解すべき最初の点は、人間の知恵ではなく啓示された情報に基いて成り立っている宗教や教えは、聖書だけではなく、ごくごくこの世の中にありふれている、ということです。日本では、幸福の科学、天理教、ニューエイジ、スピリチュアリズム、などは、いずれも啓示に基づいています。世界的には、キリスト教だけでなく、ユダヤ・イスラム教も啓示宗教に分類されています。
これらのどの宗教の創設者やリーダーたちも、霊の世界からの「啓示」があったことを前提として活動しており、その劇的な体験とそこで得た知識を元に、教えを広めているのです。
つまり、霊の世界からの「啓示」という現象は、聖書だけではなく世界的にありふれた現象なのですから、聖書に「神が語られた」と書いてあるのであれば、疑う前に「そういう現象もあり得ただろう」という視点を持つことが大切なのです。
さらに、世界中の啓示に基づく書物の中でも、聖書ほどあらゆる面でその信頼性が担保されている書物は無いわけですから、私たちにはなおのこと、聖書の霊感性を信じる合理的な理由があるのです。
啓示は人間の知恵を上回る
次に考えたいのは、霊の世界の神からの「啓示」と、人間の「知恵・知識」とでは、どちらの情報の方がより優れているか?という問題ですが、これについては、間違いなく「啓示」だと言えます。その理由は色々とありますが、例えば人間と神とでは、「時間的」「空間的(次元的)」な視点が全く異なる、という点を挙げることができます。
この世で生きる人間の視点は、せいぜい自分の人生に関係ある十数年程度に制約されますが、霊である神は、常に永遠の視点で物事を捉えています。また、この物理的世界で生きる人間には霊の世界は見えませんし、死後の世界もわかりません。しかし、霊的世界からはこちら側は見えており、神は全ての次元を完璧に理解した上で、人に真理を啓示するのです。
ですから、聖書の中に「神が語られた」と書いてあるなら、私たち人間は神から「教えてもらう」立場にあるのであって、そこに私たちが「批判的な検証」をする余地はありません。これは、啓示を調べ分析してはならない、という意味ではなく、「神は間違っている」という前提に立って批判的に検証することが間違いだ、という意味です。
もしも、それが本当に神の啓示なのであれば、たとえ人間の目には間違っているように見えるとしても、それは私たちが歴史状況の中で限界を抱えた人間だからそう見えるのであって、神が間違っているということではないのです。
「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)
体系的な聖書理解へ―普遍的基準を見分ける
山口氏の見解
「聖書のテキストの何を「神の言葉」とし、何を時代・文化の影響下での「人の言葉」とするのでしょうか?その判断基準は何によってどこに置くのでしょうか?・・・問題なのは、好きな部分だけを選択して尊重し、そうでないところは無視・放棄する読み方をしながら『自分は聖書に権威を置く』と主張する姿勢です。」(77~78項)
山口氏は、何を変わらない「神の言葉」とし、何を特定の時代状況に制約された「人の言葉」とするのか、それらを区別する確かな判断基準はないとし、その具体例として、レビ記の幾つかの規定を挙げています。既に確認したように、レビ記18・20章では、同性同士の性行為が禁じられていますが、他にもレビ記全体では様々な規定があり、そこには古代中近東の歴史的背景に根ざしたものも含まれます。
そして、現代のクリスチャンが、同性愛断罪の根拠としてレビ記18章の禁止令を挙げながら、他のレビ記の規定は守っておらず、それでいて「聖書に権威を置く」と主張していることに対して、その態度は間違っている、時代錯誤のナンセンスである、と山口氏は主張しているのです。
確かに、十全霊感説(聖書全体を神の言葉と見る立場)に立つクリスチャンの中には、そのような態度を持っている人もいるのかもしれませんが、全てがそうであるわけではありません。そして実際に、聖書とその歴史が神の霊に導かれてきたことを理解し、聖書全体を体系的に把握すれば、普遍的な基準とそうでないものを識別し、現代の人々に対しては何が適用されるのかをはっきりと知ることは可能です。
ディスペンセーション―人類救済計画と時代区分
聖書の神は、罪によって堕落した人類を救済する計画を持っています。そして神は、人類救済計画の進展において、それぞれの時代の代表となる人々と、契約を交わしてきました。そして、それぞれの契約には、それ以降の時代において神がどのような方法で人類を取り扱うかが示されてきました。
※その計画の全貌について詳しくは、「神による人類救済プログラムの全体像」で説明しています。
契約の締結は、基本的に救済史における新たな時代の幕開けを意味し、その内容によって、前の時代の契約が破棄される場合もあれば、特定の条項が継続される場合もあります。例えば、大洪水以前は、人類は菜食でしたが、洪水後に交わされたノア契約によって、人類に正式に肉食が許可されたことは、以前の契約の条項が破棄され、新たな契約の条項へ移行したことを示す良い例です。
このように、複数の聖書的契約に基いて救済史の時代を区分し、聖書を体系的に理解する神学体系を、専門的には「ディスペンセーション神学」と言います。※聖書を体系的に理解する際に、ディスペンセーション神学と対を成す「契約神学」と呼ばれる立場もありますが、今回は、ディスペンセーション神学に基づいて説明を進めます。
神の不変の基準と人類の管理方法の変化と進展
ここで、抑えておくべき大切な点があります。ディスペンセーション(時代区分)が移行し、神が人類に要求する内容が変わるからといって、神の普遍的な基準が変化したわけではない、ということです。聖書の明確な教えによれば、神は永遠に変わらないお方であり、それゆえに神が愛であり、義であり、聖であることは絶対に変わりません。
「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(ヤコブ1:17)
しかし、人間側の状況の変化と、神の人類救済計画の進行が相まって、管理する方法や内容に変化が生じることとなるのです。この事を示す実例を、イスラエルの時代のモーセ契約とキリストによる新しい契約との関係で説明したいと思います。
モーセの律法の役割
モーセの律法は、神がイスラエルに与えたものであり、イスラエル民族のみに適用されるものでした。律法が与えられイスラエル国家が誕生した背景は、彼らを周辺民族から分離し、キリストに連なる家系を守り、神の栄光を表す祭司の民族として育てていくことでした。
「5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト19:5-6)
「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ43:7)
モーセの律法は613に及ぶ様々な規定から成っていますが、その多くが祭司職の存在を前提としています。祭司が果たす重要な務めは、動物の犠牲の血を捧げることによって罪を清める(贖う)ことであり、その律法の精神は、次の聖句によって裏付けられています。
「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(レビ17:11)
動物のいけにえを通して神に近づく方法が示されたことは、神が聖い方であり、罪によって汚れた人間が神に近づくには、血による贖いが必要であることを教える役割がありました。
しかし同時に、絶えず捧げられる犠牲の存在は、動物の血が、罪人の罪を完全に除き去ることができないという真理をも啓示していました。
新しい契約の発行
イエスは、死の直前の過ぎ越しの祭、最後の晩餐の時に、次のように言われました。
「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:20)
イエスはこの言葉によって、自分が成し遂げようとしている十字架の死と流される血が、人類の罪のためのものであること、その血によって新しい契約が締結されることを明白に示しました。
そして、キリストの完全な犠牲の血が流されることによって、それを信じる全ての人の罪が完全に聖められることが可能となり、モーセの律法の役目が終わりを遂げたのです。そして、以降の時代において、神が再び罪の聖めとして人間に犠牲を要求することは無くなりました。キリストの血による完全な贖いが成し遂げられたからです。
このように、律法の時代から、新しい契約によって表される恵みの時代へ移行したことにより、神は人類に動物の犠牲を要求することが無くなりました。しかしその理由は、神が変わったからではなく、キリストの血によって状況に変化が生じたからであったことが、おわかり頂けたと思います。
ですから、律法の時代から恵みの時代への移行は、神が変わるお方ではなく、むしろ愛・義・聖なるご性質において、決して変わらないお方であることを証明するものだったのです。
恵みの時代に適用される基準とは
もしも私たちが律法の規定を生活に適用しようとするならば、律法の全ての規定を実行しなければなりません。もしも律法の一つでも破るとすれば、それは律法全体を破ったとみなされるからです。(ガラテア5:3)ですから、キリストが律法の終わりとなられた今、恵みの時代に生きるクリスチャンは、モーセの律法の掟の一つといえ、守る必要はありません。
しかし、律法が破棄されても、その土台である義や聖に関する神の普遍的な基準は残るのです。それは律法が有効だからではなく、その律法の土台であった神の基準が普遍的であるからです。では一体、モーセの律法で示された規定の内、どれが普遍的で、どれがそうでないのでしょうか?
モーセの律法からキリストの律法への移行の意義とその意味については、初代の弟子たちではパウロが最も深く理解し、論じているテーマですが、彼は神から与えられた啓示と知恵によって、何が普遍的な基準として残るのかを明確に識別し、それを新約聖書に残しました。
ですから私たちは、新約聖書を読むことを通して、普遍的な基準として何が残るのかをはっきりと理解することができるので、この点に迷う必要が無いのです。例えば本記事でも既に取り上げたパウロの悪徳リストは、変わることの無い神の基準をはっきりと示しています。
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者(マラコイ)、男色をする者(アルセノコイタイ)、10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(コリント人への手紙第一6:10)
例えば、偶像を礼拝する者、姦淫を犯す者、これらはモーセの十戒でも登場する禁令です。モーセの十戒は律法と共に終わりましたが、これらは普遍的な基準であるがゆえに、永遠に有効なのです。
レビ記の禁令が、今日でも有効だと考える最も重要な理由は、やはりパウロがローマ1章で、同性愛行為を当然のこととして断罪しているからに他なりません。時代が移行しても、性行為に関する神の基準は変わらなかったのです。
このように、聖書の歴史と神の契約を体系的に理解すれば、何が変わることの無い神の言葉で、何が時代と共に変化する規定なのかを、はっきりと識別することができるのです。
パウロの断罪は福音と矛盾するか?
パウロへの批判
ローマ書の解説で既に取り上げた通り、山口氏はローマ1章のパウロによる同性愛断罪が、確かにその通りの意味であることを認めてはいましたが、次の二つの理由を挙げることにより、パウロの言葉の相対化を主張しています。
- パウロは当時のリート男性の性理解を共有しており、同性愛だけでなく異性間の相互的な性行為も断罪しているということ。
- パウロの教えには矛盾が多く、彼の言葉を神の言葉と同一視するべきではなく、また最初期のキリスト教における信仰理解の代表と見るべきではない。
(1)については、既に本記事で説明をしましたが、(2)については聖書観の問題でもあるため、ここで取り上げていくことにしました。以下が、該当する箇所の引用です。
「パウロは他のところで、ギリシャ人の知恵を自分の知恵とはせずむしろ「愚かさ」を選ぶと述べ、また別の所では、クリスチャンたちは古い律法によって縛られずに福音によって自由に生かされる者であると言っています。しかし彼は、性をめぐる事柄に関しては当時のエリート男性の性理解を共有し、レビ記の禁令を更に拡大解釈する形で強化する矛盾した態度を取っています。
・・・なぜ彼一人が突出した主張をしているのでしょうか?なぜ、性的な事柄だけにおいては彼自身の福音理解と矛盾する主張をしているのでしょうか?(168項)「パウロの言葉とジェンダー観を、神の言葉や創造の秩序と同一視するべきではありません。それだけでなく、パウロの信仰理解を、最初期キリスト教共同体で生きた様々な人々の信仰理解の代表と見るべきではありません。」(144項)
パウロがローマ1章で、同性愛断罪をしている以上、同性愛を肯定するためには、パウロの書簡・及び彼の使徒としての権威を問題にしなければなりません。そして実際に、本の内容からはっきりとわかりますが、山口氏のパウロに対する評価はとても低く、多くの言葉を用いて、パウロを「威圧的」「一貫性が無い」「聖書をちゃんと理解していない」と批判しています。※もっともパウロが果たした一定の功績は認めた上での話です。
そこで、(1)パウロと彼の書簡をどう見るべきか?(2)彼の教えは一貫性がなく矛盾しているか、特に彼の福音理解と同性愛断罪は矛盾ではないのか?という二つの重要に点に的を絞って考えていきたいと思います。
パウロの権威と手紙をどう見るべきか?
イエスがパウロを任命した理由
パウロは、復活したイエス・キリストと超自然的に出会い、イエスから直接「異邦人への使徒」として任命を受けた人物です。イエスは「世の基が置かれる前」から彼を選んでいたわけですが、彼を使徒として任命したのにはそれなりの理由があると考えるべきでしょう。彼はピリピ人への手紙の中で、次のような自己紹介を述べています。
「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」(ピリピ3:5-6)
このような熱心さによって律法に精通していたからこそ、パウロはイエスを受け入れた時に、キリストの贖いと新しい契約の意味を、普通のユダヤ人よりも遥かに深いレベルで理解することができました。そして、福音に対する深い理解は、ローマ帝国中に離散したユダヤ人へ福音を伝え、各地で育っていく教会内で生じる聖書とユダヤ人に関する問題を適切に取り扱う上で、とても重要なものとなったでしょう。
さらにパウロは、ディアスポラのユダヤ人であったため、ギリシャ語を話すことができ、ローマの市民権も持っていました。このような条件は、とりわけ異邦人へ福音を伝えていく上で、重要な役割を果たしました。
以上の点を踏まえると、イエスがパウロを使徒として任命したのにはそれなりの根拠があったのであり、その重要な根拠の一つは、福音を正しく理解し教える人物として最適だったからに違いありません。
パウロは多くの啓示を受け取った
紀元一世紀は、メシアの十字架と復活によって、律法の時代から恵みの時代への移行が行われた重要な時代であり、それゆえに使徒たちを通して多くの奥義の啓示がもたらされました。そしてパウロは、使徒たちの中でも特に多くの啓示を受け取った人物であることは間違いありません。彼がイエスから直接的な啓示を多く受け取ったことは、彼の書簡を読んでいけば、明らかに見えてくる事実だからです。
そのような背景を考えると、パウロの聖書理解は、元々彼が持っていた聖書知識に加え、直接的な神からの啓示による影響を多大に受けていたことがわかります。ですから、このように神から多くの啓示を委ねられた人物の書いたテキストは、同じように神からの啓示を受けて書かれた旧約聖書の預言書と、同等の価値があると見るべき十分な理由があります。
実際に、初代教会の代表的な使徒の一人であったペテロも、パウロの手紙のことを「聖書(グラフェ)」と呼び、彼の手紙を聖書の一部と見做していたことがわかります。
「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」(第二ペテロ3:15-16)
ですから、以上の背景を考慮するならば、神から直接任命され多くの啓示を受けた人物として、パウロの権威を尊重すべき十分な理由があることがわかります。もしも、彼の言葉に多少の疑問を感じるとしても、安易に批判するような態度は慎むべきでしょう。
パウロの福音理解
では、パウロの書簡の中で、一貫性が無い、食い違っていると見られる箇所については、どう理解したらよいでしょうか?特に、彼が宣べ伝えていたキリストの福音が、同性愛断罪と矛盾していると見られる場合は、これをどう理解したらよいでしょうか?
福音による自由とは何なのか
パウロが間違っていると思える時は、まず自分の側に、パウロの聖書理解に対する誤解があるのでは?と考えてみる必要があります。そして、実際に山口氏は誤解しているのです。
パウロは、自身の手紙の中で、「自由」という言葉をたくさん用いていますが、それは大抵の場合「律法からの自由」や「罪からの自由」を意味する文脈で用いられています。イエス・キリストが贖いを遂げたことで、律法の役割が終わりを遂げたからです。
そして、本記事の体系的聖書理解のテーマで既に述べた通り、律法が終わるとしても神の聖に関する基準に変更が加えられるわけではありません。ですから、律法から自由になるということは、何をしても良い、という意味ではないのです。むしろ、この自由を誤解して罪となる行為を行うなら、かえってその人は罪に束縛され「罪の奴隷」となるのです。
兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。14 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 15 もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。
私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、 21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。(ガラテア5)
ですから、パウロの福音理解と、彼が語った同性愛断罪との間には、矛盾はありません。むしろ彼は福音が何たるか、福音を信じた人がどのように生きるべきかを、実に正確に説明しているのです。
結論
聖書の答え
本記事を書くにあたり、山口氏の著作を読みながら、同性愛に関する聖句を改めて確認していきました。そして、全体の内容をまとめると、次のような結論へと導かれました。
聖書全体の中で、同性愛行為を罪としている最も重要な聖句は、レビ記18・20章の規定と、ローマ1章のパウロの断罪の箇所です。聖句の箇所としては少ないながらも、どちらの聖句においても同性愛行為を明白に禁じており、これらの言葉の字義的な意味を覆す方法は皆無だと言えます。
また聖書は、たとえ異性同士であっても、結婚前の性行為を禁じています。ですから、同性愛行為が罪なのか?という議論をするのなら、その前に同性同士の結婚は罪なのか?という点を考えなければなりませんが、聖書のどこを見ても、同性同士の結婚を認めている事例は無く、一人の夫と一人の妻とが結婚をする、という大前提で全てが語られていることがわかります。
また、これらの聖句の意味を相対化するためには、聖書そのものを相対化する必要がありますが、そのような信仰は、突き詰めると、イエスを全面的に信頼する信仰とは相容れません。ですから、イエスを信じる、という信仰を持つならば、やはり同性愛行為を肯定することはできないのです。
聖書的価値観を抜きにした私自身の感覚としては、全ての同性愛者がそのままでも救われて欲しいと思います。しかし、だからと言って、神がそれを罪だと啓示されている以上、自分の感情によって、その基準を曲げることはできません。
キリストを信じて生きるために
元同性愛者であったクリスチャンの複数の証を読んでいくと、キリストを信じた後の生き方として、次の二つのケースが考えられます。
- 聖霊の力によって、同性愛的傾向そのものが取り去られて、異性愛者に変化する。
- 同性愛的傾向は多少残るが、神の助けを得ながら、この世での生活を送っていく。このような人の中には、異性の配偶者が与えられる場合もある。
同性愛者がキリストを信じた後に、どちらのパターンの生活を送っていくことになるのかは、信じてみないとわかりません。こればかりは、全知全能の神による導きですから、私たち人間の側で、どちらが最善なのかを判断する術はないでしょう。
しかし、一つだけはっきりと言えることは、同性愛者がキリストを信じ、聖書を神の言葉と信じる信仰へと導かれるなら、その後にたとえどんなことがあろうとも、その人が義の道を歩み続けることができるよう、神は必ず助けてくれる、ということです。
これは、私個人の考えではなく、聖書の中で繰り返し啓示されている神の約束です。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
「あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10:13)
そして、同性愛者が、たとえキリストを信じて生きることを通してどんな葛藤をこの世で感じるとしても、それは今の世での一時的なものであることを理解しなければなりません。また、同性愛者であろうと無かろうと、人はそれぞれに弱さや困難となる状況を抱えており、この世で生活をしている限り、誰しも何らかの葛藤を抱えているものです。
たとえば、ニック・ブイチチ、という人がいます。彼は同性愛者ではありません。しかし、彼は生まれつき、手足がほとんど無く、若い時には自殺を考えたこともあったようです。しかし、ある時から自分に無いものではなく、自分に与えられているものに目を留めるようになりました。そして、他人と比べることからではなく、キリストの中に希望を見出すようになったのです。
最後に、今の世で私たちが色々な困難を経験するとしても、それは一時の苦しみに過ぎません。キリストを信じ、復活の命に与る全ての人は、「新しい世」において、全ての葛藤から必ず解放され、完全な意味での自由を得ることになるからです。
今回の記事が、同性愛者をはじめ、他の多くの人々にとって、聖書を正しく理解するための助けになれば幸いです。そして、一人でも多くの同性愛者の方々が、永遠の命を得ることができるようお祈り致します。
「18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。 25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。 26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(ローマ8:18-27)
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