臨死体験・天国訪問・幻・預言等による キリストの啓示は信頼できますか?


臨死体験や天国訪問・幻などによる キリストの啓示は信頼できますか?

「臨死体験でイエスにあった」
「キリストに導かれて天国や地獄を訪問した」
「幻によって携挙や艱難時代の様子を啓示された」

昨今、このような報告が世界中から寄せられており、かなりの数に上るが、それらの体験の信頼性については、懐疑的な見方を持つクリスチャンも多い。ただし、実際にイエスとの超自然的な出会いを通してクリスチャンになる人や、クリスチャンであってもその体験を通して聖書に対する信仰が深まり、熱心な伝道者に変えられたりするケースも多くあるので、一概に無視できるものではない。

かつてパウロは、コリント人への手紙の中で、「聖霊によるのでなければ、誰も『イエスは主です』ということはできません」と断言した。

神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(第一コリント12:3)

したがって、もしもある人が、イエスとの超自然的な体験を通してキリストを主として信じるようになったのであれば、聖書的には、「それは聖霊によるものだった」と考えなければならない。

また、臨死体験であれ、死後の世界の訪問であれ、もしもそれらの体験が神からのものでなければ退ける必要があるが、もしも本当にキリストからの啓示であるなら、その啓示の内容は、全人類にとって極めて重要な内容であるはずだ。私たちは、その啓示の内容に、真剣に耳を傾けなければならないだろう。

そこで本記事では、これらの体験の信頼性について、どのような基準を持って考えるべきなのか、その具体的な点を考察していきたい。

※神学的には、この種の体験に基づく情報を「啓示」ではなく「啓明」と呼ぶ場合もあるが、多くの人にとって馴染みの無い表現であるため、本記事では「啓示」という表現で統一させていただく。なお、本記事は、基本的にはクリスチャンの読者を想定して書いていくが、ノンクリスチャンであっても、このテーマに関心のある方には一読をお勧めしたい。

体験の種類

臨死体験

この種の体験報告で近年最も多いのが、この臨死体験かもしれない。死後の世界でイエスと出会うかどうかに関わりなく、臨死体験そのものはかなりメジャーな研究テーマとして確立されてきており、近年では世界的な規模の学会も存在する。

臨死体験の報告が、前の時代よりも増加している理由としては、二つの点を挙げることができる。第一に、医療の現場における蘇生技術が発達し、瀕死の状態から生還できる確率が上がったからである。第二に、臨死体験というものが広く認知されるようになり、前の時代よりもその体験を告白しやすい環境が整ってきたからである。

臨死体験の中でイエスに出会った、と報告する人は、世界的にもかなりの数に上るが、体験者の全てが口を揃えて言うことは、「イエスから無条件の深い愛を感じた」「光輝く存在であった」というものだ。

中には、一度地獄へ落とされたが、そこでイエスが助けに来てくれたことにより、イエスを信じるようになった、というケースも複数存在する。(特に、イスラム教徒の中にこの事例が多い)

なお、聖書の中では、臨死体験に関する記述は存在しない。

体外離脱体験(天国・地獄訪問)

体外離脱体験とは、肉体から霊魂が離脱する体験のことで、臨死体験や、自身のテクニックで行う幽体離脱なども、広い意味ではこの体外離脱体験に含まれる。ただし、ここでの体外離脱体験の定義は、神の導きによって、肉体から霊魂を分離させられ、おもに死後の世界を訪問することを許された体験を指す。(死後の世界を案内しないのであれば、そもそも体外離脱させる必要は無いと思われる)

体験者は、キリストによって天国や地獄を案内され、そこで多くの現実を目の当たりにして、地上へ帰還することを許される。またその中で、携挙などを含む終末の幻を垣間見る、と言ったケースも度々報告されている。

聖書の中では、次の聖句に、その種の体験のことが述べられている。

「私は主の幻と啓示のことを話しましょう。私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。」(第二コリント12:1-2)

もしも、ここで言及されている体験者が、肉体を離れた状態で第三の天(天国のこと)まで引き上げられたのであれば、現代多数報告されている「体外離脱体験」と同じだったことになる。なお、実際に筆者の知り合いでも、この種の体験を経験している牧師がいる。

幻による啓示

体外離脱を伴わず、キリストから幻を通して啓示を与えられることを指す。聖書の中では、多くの預言者たちが幻を通して啓示を与えられ、その内容が預言書として記されていった。なお、体験の内容によっては、それが体外離脱を伴うものなのか、伴わない幻なのか、区別がつかないことがよくあり、上記で引用したパウロの言葉もそれと同様である。

ただし、それらを厳密に区別する意味はあまり無く、大事なのはそれが神から来ているかどうか、という点にある。

なお、神学的には「新約聖書の時代における重要な啓示は、ヨハネの黙示録で完成しており、現代におけるこれらの幻を聖書の啓示とは区別し『啓明』と呼ぶ」とする見方もあるが、「啓明」という言葉は多くの人にとって馴染みがないため、ここでは「啓示」という表現で統一する。

なお、筆者が現代における数々の幻に目を通してきてわかったことは、新約時代における重要な啓示―その骨格となるものは、たしかにヨハネの黙示録で完成している、ということであり、黙示録以上に素晴らしい預言は無い、と断言できる。したがって、現代における様々な主による啓示は、聖書で完成した預言の骨格に、肉付けをしていくような役割を持つ、と言えるだろう。

キリストの顕現

キリストの顕現とは、復活されたイエスが、ある人の前に突如として、目に見える姿で現れる現象を指す。新約聖書では、ダマスコへ向かうパウロの前に、突如としてイエスが栄光の姿で顕現をしている例があるが、これと同じようなことが、現代においても数多く報告されている。

パウロの場合は、目が見えなくなってしまったが、顕現の際にイエスがどのような形で現れるかは、人によって様々な状況がある。顕現されたイエスに出会った人は、ほぼ例外なくキリストを信じるようになるか、既にクリスチャンである場合は、その信仰が強められる。

最近で話題になったケースでは、スピリチュアルの世界的なグルとして有名であったドリーン・バーチューが、ある日の教会の礼拝でイエスに出会い、クリスチャンとして生まれ変わる、ということがあった。ドリーンは、本物のイエスを目の当たりにしたことによって、神としてのイエスの実体を体験的に知り、自分が惑わされてきたことを悟ったようだ。

なお、キリストの顕現の体験報告が、幻による啓示と区別がつかないようなことも多々あるが、重要なのは、それが神から出ているか、という点である。

ドリーン・バーチュー

ドリーン・バーチュー|Photo from Youtube – Doreen describes her experiences with Jesus

啓示の信頼性を識別する聖書的基準とは

聖書のどの教えが重要な判断基準なのか

この種の体験の信頼性について、クリスチャンにとって最も重要なことは「それらの体験が本当に神からのものなのか」という点にある。そこで、その判断を正確に行うためには、聖書のどの教えを、重要な判断基準として採用するべきかを考えなければならない。(もっとも、聖書全体の教えと調和しているべきなのは、言うまでもない)

筆者はこれまでに、キリストの啓示だと考えられる多くの啓示だけでなく、他のスピリチュアリズムやニューエイジなどの啓示にも目を通してきた。そしてそれらの経験を通してはっきりとわかったことは、キリストによる直接的な啓示と、その他の「霊」による啓示との間には、非常に明確な違いがある、ということだ。

さらに、明確な違いがあらわれるテーマはいつも決まっており、そこには一貫性があることもわかっている。そこで、これまでの筆者の経験と聖書知識を活かし、キリストによる啓示かどうかを識別するための、具体的な判断基準を提供したい。

なお、「その他の啓示」の中には、シルバーバーチなどによって代表されるスピリチュアリズム系の霊や、ニューエイジ、イスラム教*[1]、などが含まれる。

イエス・キリストについて

聖書の教え

霊による啓示を識別する上で最も重要な判断基準は、その霊がイエスについて何と述べているか、である。むしろ、この点さえしっかりと確認できれば、他はチェックする必要が無いと言えるほど、イエスをどう定義するかは重要な問題である。

かつての使徒ヨハネも、霊がイエス・キリストを告白するかどうかを見れば、その霊が神からのものかどうかを判断できると語った。

「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(第一ヨハネ4章1~3節)

聖書はイエスについて、創造主なる神、神の子、救い主、という称号を与えている。つまり、イエスは絶対的な存在だと教えている。またイエスは、受肉する事を通して、神性と人性の両方を備えられた*[2]

これらの教えと、霊による啓示の内容が一致していれば、それは神からのもの、と判断することができる。

キリストによる啓示

キリストによるとされる多くの啓示では、聖書の教えと同じく、キリストの絶対性が示されている。つまり、イエスは神であり、救い主であり、王の中の王であると語られる。当サイトでも、この種の超自然的な体験の証を複数載せているが、以下に、その一例を紹介する。

モハメッドの初代後継者「カリフ」の血をひくナサール・サディーク氏は、ある時、原因不明の深刻な病気で瀕死の状態になったが、神に祈っていた彼のベッドの脇に、突如として光を放つ人―イエスが現れた。そして、イエスは二つのことを彼に告げた。(ナサール氏の証

「わたしはクリスチャンの神である」
「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」

イスラム最高指導者の子孫、死の瀬戸際で現れたイエスに癒される

ナサール・サディーク氏|Image by Youtube

その他の霊の啓示の特徴

イエスは偉大な存在ではあるが、神ではなく、もっと相対的な存在だと教えられる。相対化された結果、イエスがどのような存在として描かれるかは、個々の宗教によって違いが見られる。シルバーバーチでは、「地球を救う霊団のリーダーだが、神ではない」とされ、イスラム教では「神の子ではないが偉大な預言者」だとされている。

ニューエイジのグルであったドリーン・バーチューも、かつてはイエスが「アセンデッドマスターの一人」だと教えていた。ところが、イエスの顕現に触れてからは、キリストがそれ以上の存在だと気づくようになったという。

イエスの死の目的について

聖書の教え

イエスの十字架上での死の目的が「罪の贖い」であったことは、あまりにも重要な聖書の教えである。実に神は、旧約聖書の時代から、罪の赦しのために命の贖いが必要であることを律法によって示してきた。そして、その成就である過ぎ越しの子羊として命を捧げたのが、イエス・キリストだったのだ。(レビ17:11、第一コリント5:7)

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:28)

十字架の死が贖いであったからこそキリストは復活し、その死が罪の身代わりであったからこそ、イエスを信じる全ての者が、罪の赦しによって永遠の命を得ることができるようになった。したがって、イエスの死が罪の贖いであったということは、神にとっては譲れない真理であり、逆を言えば、神に敵する霊にとっては、どうしても否定しなければならない教えなのである。

キリストによる啓示

キリストによるとされる啓示の多くは、イエスの死が罪の贖いであったことが明白に教えられている。例えば、かつて大ベストセラーとなった『天国は本当にある』では、臨死体験で天国に行ったと話すコルトン君は、イエスの死の目的について、次のように答えたという。

「コルトン、イエスが何で十字架の上で死んだのか、君は知ってるかな?」コルトンはうなずいた。・・「えっとね、イエスが言ってたけどね、イエスが十字架の上で死んだのはね、そうすれば、僕たちがイエスのお父さんに会いに行けるからだよ。」―トッド・バーポ『天国はほんとうにある』190頁。

つまりコルトン君は「天国へ行くためには、キリストの十字架が必要だった」と答えたのだ。しかもそれを、自分の言葉ではなく、「天国でイエスが話していた言葉」として紹介したのである。

天国は本当にある、コルトン君

コルトン君|Image by CBN

その他の霊の啓示

イエスの十字架による贖いの死は、神にとっては勝利、悪魔にとっては敗北を意味する。したがって、悪魔を源とする霊による啓示では、キリストの死が罪の身代わり(贖い)だった、という点が一貫して否定される。

たとえば、シルバーバーチでは「イエスは死んだが、贖いのためではない」とされ、イスラム教では「イエスはそもそも死んでおらず実は生きていた」と教えられる。

死後の世界について

聖書の教え

聖書によれば、人は死後、天国と地獄*[3]のどちらかへ行く。天国も地獄も永遠の場所であり、一度地獄へ行った人が、その後に悔い改めて天国へ行く、ということは無い。また、一度天国へ行った人が、その後地獄へ行く、ということも無い。

「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。・・私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』」(ルカ16:23-26)

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブライ9:27)

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。・・・わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:3-8)

キリストの啓示

キリストによるもとされる啓示の多くでは、死後の世界はキリストが支配する天国か、罪人が苦しむ地獄かのどちらかだと教えられる。また、どちらに行こうとも、それらの場所が永遠であることが示されている。

天国を垣間見る人の中には、過去に天へ召されたクリスチャンたちや、旧約時代の聖徒たちと会うことを許される人もいる。さきほど取り上げたコルトン君の場合は、天国でバプテストのヨハネに会った、と証言している。

その他の霊の啓示の特徴

多くの霊は、輪廻転生の教えを説く。つまり、人の魂は輪廻するものであり、善行を積み重ねることによって、魂はより高次元の世界へと輪廻していき、その逆に悪行を積み重ねれば、より低次元の世界へと輪廻していくことになるが、来世において前世の悪い行いの精算をする機会は残されている。これを支持するのは、シルバーバーチなどのスピリチュアルをはじめ、ニューエイジ、仏教、ヒンズー教、など多岐に渡る。(なお、輪廻転生の教えの具体的な詳細は、宗教によって多少の違いがあるかもしれない。上記で紹介した輪廻転生の教えは、スピリチュアリズムで一般的に教えられている内容である。)

イスラム教の場合は「人は死んだら無になり、最後の審判を待つ」と教えられる。

※なお、「死んだら無になる」という教えは、一部のキリスト教系の団体にも見られるが、聖書の教えではない。この点についての聖書的根拠は、以下のサイトの記事で詳しく説明されている。
霊魂不滅・地獄は聖書の教えですか?

救いの普遍性について

聖書の教え

多くの日本人にとっては受け入れがたい内容だが、聖書は普遍主義的な救いを教えてはいない。つまり、宗教にかかわりなく、善い生き方をした人は皆救われる、とは教えてはいない。聖書の言葉は明らかに、「イエス・キリストに対する信仰」だけが、永遠の命の救いをもたらすものだと教えている*[4]

その理由は、全ての人は例外なく神の前で罪人であり、キリストの十字架だけが、その罪の赦しを可能とするからだ。(ローマ5:19~21)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

補足しておくべき点として、聖書の教えにおいても、善行は貴重な行いである。しかし、人が救われて天国に行くことを可能とする根拠は、キリストの十字架だけだとされている。

キリストの啓示

キリストによるとされる啓示においても、イエス・キリストに救いの唯一性があることが示される場合がある。たとえば、地獄へ落ちた魂が、自分たちが滅びた原因として「キリストを信じなかった」ことを挙げていたり、天国でイエスや天使たちから、そのことを直接示されたりする場合もある。

『天国は本当にある』のコルトン君は、ある日の葬儀に参加した時に、亡くなった人がキリストを信じていたかどうかを気にし、叫びだしたという。

「その人の心に、イエスがいないとだめ!その人は、イエスを知らないとだめ!そうじゃなきゃ、天国にはいけないの!」(トッド・バーポ『天国はほんとうにある』102頁)

自殺未遂で臨死体験をしたタマラという米国の女性は、ピストルで自分の頭部を撃ち抜いた後、地獄へと降下していった。そこでは、多くの魂が苦しみながら、地上へ向かって次のように叫んでいたようだ。(タマラの証

「ここに来てはいけない。人生は、イエス・キリストに繋がっていることを知りなさい!」

自殺未遂により臨死体験で地獄へ行ったタマラ

自殺未遂による臨死体験で地獄へ行ったタマラ|Image by youtube

その他の霊による啓示

ほとんどの場合、人は地上生涯の善行の度合いによって、天界のより優れた場所、あるいはより優れた来世の人生へ導かれると教えられる。天界の場所は何段階もの層に分かれており、地上の善行が多ければ多いほど、より天界の上層に導かれる、とされている。

例えばシルバーバーチの霊訓では、クリスチャンも天国に行けるが、それはあくまで道の一つであり、その根拠は十字架によってではなく、善行によってであると教えられている。

なお、イスラム教における救いは、アラーの神の教えに従順であったかどうかにかかっている。

聖書の信頼性について

聖書の教え

イエスをはじめ、どの聖書筆者も、聖書全体が神の霊感を受けた言葉であることを教えている。自由主義の影響により、聖書にある超自然的な現象を神話や比喩の類として見るクリスチャンも多いが、キリストが、また聖書筆者たちが、それら全てを歴史的記録として考えていたことは明らかである*[5]

「天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:18)

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第二テモテ3:16)

キリストによる啓示

筆者が知る限り、「イエスと会った」とされる体験報告において、そのイエスから聖書の記述の誤りが示される、というケースは一つも無い。むしろ、それらの体験においては、最初の人類の創造やノアの大洪水、出エジプトなどを含む聖書の歴史が、その通りの歴史的出来事であったことが語られる。

また、イエスとの対話の中で、話の内容の根拠として、イエスご自身の口から聖書の言葉が引用されるケースは非常に多い。仮に、聖書が不完全な書物であることをイエスが知っているのであれば、そのような聖句の引用は意味のないことである。

米国のハワード氏は、臨死体験でイエスと会話をした時に「聖書の中で、あなたについて書かれていることは本当のことですか」とイエス本人に質問をしたが、次のような回答を得たという。

「聖書に書かれている物語は、私が何者かということと、何をしたかということの一部を書き残したに過ぎない」―『臨死』Kindle版、No.1326

つまり、書かれている内容については、その通りだということである。

元無神論者 ハワード ストームの臨死体験―天国と地獄でイエスと出会う

ハワード・ストーム氏。『臨死』の著者であり、臨死体験の前は無神論者だった

その他の霊の啓示

その他の霊は、聖書の記録の歴史性や正確性を、一貫して否定する。つまり、聖書には神話や、霊感されていない人間の言葉や、誤りが含まれている、と教える。また、その聖書の信頼性について語らなくても、聖書の記録とは異なることを語ることによって、結果的に聖書の歴史性を否定する。

たとえばシルバーバーチの霊は、イエスの復活が霊的復活だと言ったり、処女降誕が創作だと言ったり、アダムとエバの話が神話だと言ったりする。

イスラム教の場合は、正典のコーランと聖書の教えが食い違う場合は、コーランの方が正しい、と教えられる。たとえば、聖書においてアブラハム契約は、アブラハム、イサク、ヤコブに継承されたと書いてあるが、コーランではイサクではなく、イシュマエルだと教えられるので、その点における聖書の記録は間違いだとされる。

その他の注意点

他には、これまでに挙げた基準のいくつかにある程度沿うように見えるとしても、中には怪しいものがあるかもしれない。例えば、前に筆者は、臨死体験で神から啓示を与えられたという話の中で、キリストの再臨*[6]のタイミングを「あと数ヶ月くらい」という風に、ある程度特定しているものを見たことがある。結局、その証言から一年以上が経過しているが、何も起きてはいないのだ。

イエスはマタイの福音書の中で「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」と明確に述べた。(マタイ24:36)つまり、その体験者が語った内容の中には、既に聖書の中で明らかにされた明白な教えに反する事柄が含まれていたのである。

このように、「既に聖書の中で明白にされた教えが何であるのか」を知っておくことは、この種の体験を判断する上で、大切な知識だと言えるだろう。

結論

以上、聖書の教えから、主だった五つの基準を取り上げたが、ある霊の語る言葉が、これら五つの聖書的基準に合致しているかどうかを確認すれば、おおよそ問題は無いと考えられる。少なくとも、筆者がこれまでに目を通してきた多くの啓示は、これら五つの教えを全て肯定するか、否定するかのどちらかだからだ。

そして、現代の臨死体験や幻などから来る啓示を評価する上では、以上に挙げた聖書的な基準の他に、次に挙げる点も考慮することが望ましいと言える。

その他の重要な判断基準

体験者がどのように変えられたのか

もしも、死後の世界や幻で出会ったイエスが本物であれば、体験者の霊的な状態に聖書的な変化が生じている可能性が高い。そして、本記事の冒頭でも述べた通り、もしもその体験を通して、体験者がイエスを救い主として信じるようになっているのであれば、その体験は、やはり本物だったと考えざるを得ない。聖霊によらない限り、誰もイエスを信じることはできないからだ。

また、体験者が元々クリスチャンである場合でも、この種の体験を経ることにより、聖書的な信仰に成長が見られるのであれば、その体験が本物であったことを示すものとなるだろう。

一方で、もしもこれらの体験を通し、体験者が別の方向へと変化していくようなことがあれば、その体験の内容に注意しなければならない。

体験者に関する情報の公開性はどの程度か

情報の公開性は、体験者によって様々である。ただネット上で文章だけを載せている場合、YouTubeなどで顔を公開して証言をしている場合、実名を公開し体験内容を記した本を出版している場合、などである。

当然のことだが、前者よりも、後者の方が、情報の信頼性はより高くなってくる。特に、実名で本の出版などを行っている場合は、書いた内容の真実性により大きな責任を負うことになるので、信憑性は自ずと高くなる。

※ただし、以前に米国で、金儲けのために偽りの臨死体験の本を出版した人がいた。時々こういう事例もあるので、注意しなければならない。ただ、後になってその著者は真実を告白した。きっと良心の呵責に耐えられなくなったのだろう。

証言内容の主観性はどの程度か

この種の体験は、基本的に第三者が観察することができない性質のものである。だから、体験者が起きた出来事を正直に話していたとしても、場合によっては、体験者の主観が含まれているかもしれない。

だから、この種の体験報告を読む場合は、どこからどこまでが客観性のある内容なのかに注意する必要がある。

聖書に無い教えが明らかにされている場合

臨死体験や幻で出会ったイエスから、聖書に記録されていない事柄や教えを聞いた、と言う人は多い。しかし一方で、こうした証言に対し「聖書に書いていない教えだから」という理由で、懐疑的な見方を持つ人も少なくはない。

この点については、以下で示す点を考慮に入れながら、バランスの取れた見方をすることをお勧めしたい。

聖書は真理だが、真理の全てを教えてはいない

「聖書は絶対真理の本ですが、完全真理の本ではありません。聖書は神からの言葉ですので、そこに書いてある全ての言葉は「絶対真理」です。しかし、真理の全てを記録しているわけではないので、「完全真理」の本では無いのです。」

これは、かつてある聖書教師がセミナーの中で語っていた言葉だが、重要な点だったので、今でもよく覚えている。聖書の教えは、クリスチャンが知るべき基本的な教えを全て網羅しているが、イエスや弟子たちが語った全ての言葉を網羅しているわけではない。

使徒ヨハネも、その点について、このように書いている。

「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書き記すなら、世界も、書かれた書物を入れることができない、と私は思う。」(ヨハネ21:25)

したがって、「聖書に記録されていない」ということは、必ずしもそれが「真理ではない」ことを意味するわけではない。

複数の証言において一貫性があるか

ただし、聖書で教えられていないような事柄が臨死体験や幻で教えられている場合は、一人の体験者の証言だけを根拠に真理だと決めないようにする、という注意深さも必要かもしれない。聖書の場合は、記される過程において、誤りの無いよう聖霊の導きと守りがあった、という保証があるが、この種の体験者の報告では、そのような保証が無いからだ。

仮に、体験者が与えられた啓示が、本物のイエスからのものであったとしても、それを話したり記したりする過程において、多少の誤りが生じたり、個人的な解釈が入ったりすることもある。だから、聖書に書いていないことは、一人の証言だけで考慮するのではなく、他にも同じような証言をする人がいるのかどうか、その「一貫性」を確かめることが望ましい。そして、一貫した証言をする人が多ければ多いほど、その証言の信頼性は高まっていくと言えるだろう。

なお、ここで言及した「一貫性の確認」は、解釈の立場が分かれるような神学的なテーマについて、イエスが啓示を与えているような場合でも同じく重要である。たとえば、プロテスタントの中では、携挙の時期について、それが患難前か、患難中か、患難後か、そもそも携挙という現象はあるのか、という神学的な議論が存在する。

では「携挙の幻を見た」と証言する世界中のクリスチャンが、それについてどんな報告をしているかというと、興味深いことにそれら多くの幻は、「携挙が大艱難時代の直前に起きる」という点で一致している。

人によって、「患難中」だったり、「患難後」だったりする、ということは全く無い。筆者の知る限り、全ての体験者が、「一貫して」患難前に携挙が起こることを伝えているのである。このように、複数の体験者の証言の間に、あるテーマに関する「一貫性」が見られる場合は、その情報を信頼すべき重要な根拠と考えてよいだろう。

実例―亡くなった幼児は天国にいる

聖書は、幼くして亡くなった幼児や胎児が、死後にどこへ行くのかについて、はっきりと教えてはいない。(一応、示唆するような聖句はあるが、明瞭な教えと受け止めることは難しい)

しかし、臨死体験や幻を通して、早くに亡くなった幼児や胎児が天国へ行っていると明瞭に教えられた人は、複数存在する。最も有名な事例は、やはり『天国は本当にある』におけるコルトン君の臨死体験だろう。コルトン君は当時4歳であったが、臨死体験では天国へ直行したようだ。さらに天国では、母親のお腹の中で亡くなった姉と出会って遊んだと語っている。(ちなみに、コルトン君の前に他界した姉がいたことについて、両親は彼に明かしてはいなかったようだ)

また、早くに亡くなった幼児が天国へ行くことについては、聖書的な原則を踏まえても、決して不思議なことではない。かつてイエスは、「悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」と語ったからだ。(マタイ18:3)以上の理由から、この教えについては、神から啓示された真理として受け止めて問題はないと、筆者は考えている。

なぜイエスはさらなる啓示を与えるのか

最後に補足しておきたいことは、なぜイエスは現代のクリスチャンに、聖書以外の啓示を与える必要があるのか、という点である。

第一に、これらの体験の多くは、それぞれの体験者が個人的に与えられたものである場合が多い。つまり、イエス・キリストが、それぞれの人の必要に応じて、真理を示すために適切な啓示を与えたのである。

第二に、聖書が書かれた紀元一世紀と現代とでは、クリスチャンを取り巻く状況は大きく異なっている。すると、その変化した状況に合わせ、必要とされる具体的な教えや情報も新たに必要とされるかもしれない。

もっとも、聖書で明らかにされた原則にしたがって考えれば、多くのことは解決するが、判断の難しいような状況も存在する。こうした状況を見た上で、イエスが現代のクリスチャンに対し、聖書に書かれていない具体的な情報を与えたとしても、何も驚くことではない。

たとえば、米国のビル・ワイズという名のクリスチャンは、ある時イエスの導きによって、地獄を体験することを許されたが、その体験後に「主よ、なぜ私をあんな場所へ送ったのですか?」と考えると、キリストは次のように答えたと言う。

「多くの人が、地獄が実在すると信じていないからだ。私の民でさえ、地獄を信じていない者がたくさんいる。」

聖書の中で、地獄について最も多くを語り、また警告をしたのは、他ならぬイエスご自身である。しかし実際には、地獄の存在をしっかりと語らない教会は多いし、地獄を現実の場所としてちゃんと認識してないクリスチャンも少なくは無い。

ならば、そのような状況を改善するために、キリストご自身が、現代にさらなる啓示を与えたとしても、何も不思議なことではない。まして今は終わりの日であり、イエスは一人でも多くの人を、天国へ招きたいと切に願っているのである。

※繰り返しにはなるが、重要な真理の枠組みは、既に聖書の中で完結している。実際に、ヨハネの黙示録では、千年先から永遠に至る神の計画が、明白に示されているのである。キリストは、その枠組みに沿ったさらなる詳細な情報を与えることで、聖書の言葉にリアリティをもたせているのだ。

結論

本記事では、キリストによるとされる啓示や体験の信頼性を評価するための、具体的な基準を示してきた。そしてそれらの基準を示す上で、キリストの啓示とその他の霊による啓示との間に、いかに大きな違いがあるのかも明らかにしてきた。

これらの注意点を考慮した上で、この種の体験報告に目を通していくならば、惑わされたり、大きな間違いを犯したりすることはないだろう。

むしろ、筆者の経験では、聖書の学びを深めるためにも、「イエスと出会った」と証言する人々の報告に耳を傾けることは、とても有益だと考えている。なぜなら、筆者にとって、これらの体験報告の数々は、神の愛と義について、死後の世界の現実について、聖書の信頼性について、そして真理の全貌についての認識をより深めるものとなったからである。

もっとも、聖書以外のこれらの啓示にどこまで耳を傾けるかについては、その判断を各自に委ねるべきだと思う。一番大事なことは、聖書そのものをよく読むことであり、その他の情報にどれだけ目を通すかは、人それぞれの自由だと考えるからだ。

もしもあなたが、この種の体験に興味があるならば、当サイトでも複数の記事を紹介をしているので、以下のリンク先から確認することをお勧めしたい。もちろん、それぞれの記事は、本記事で取り上げたような聖書的基準をちゃんとチェックした上で掲載している。

キリストによる啓示 一覧

脚注

[1] イスラム教は、モハメットが天使ガブリエルから受け取ったとされる啓示の内容に基づいている。したがって、れっきとした啓示宗教である。

[2] イエスの神性に関する聖書的な根拠は、三位一体に関するこちらの記事で詳しく説明されている

[3] ここで言う地獄とは、正確にはギリシャ語で「ハデス」と呼ばれる場所の苦しみの領域を指す。最後の審判の後に裁かれた人が投げられる火の池とは区別される。

[4] もっとも、「クリスチャンだけが救われる」という教えは、あくまで原則的なものである。たとえば、信仰を持つ前に幼くして亡くなった子供や、知的障害などによって福音を理解できなかった人々に対しては、この原則は適用されないと考えられる。

[5] 聖書の霊感性の問題とその考え方については、次の二つの記事をお勧めする。「福音主義、リベラル、聖書の正しい読み方はどちらか」「同性愛は聖書の教えか

[6] 証言の内容から、おそらく空中再臨(携挙)を意味していたと考えられる。なお、携挙に関する啓示を受けた多くのクリスチャンは、「携挙が近い」ことをイエスから聞いた、と証言しているが、「近い」という表現は、特定の日付けや時期を示唆するものではないので、非聖書的なわけではない。携挙の詳しい解説はこちらの記事をお勧めする

あわせて読みたい

2件のフィードバック

  1. ft より:

    はじめまして。最近聖書を読み始め、こちらのサイトの様々な考察を読ませていただきました。自分がなんの疑いもなく受け入れていた進化論が矛盾だらけで、創造論やイエスの復活など聖書に書いてあることが真実であると認識を改めました。
    私は神の存在を信じ、受け入れつつありますが、一つだけ心に引っかかることがあります。
    聖書やこちらの考察によれば、私の祖父母は地獄で永遠に苦しむことになりますが、救いはないのでしょうか?彼らはキリスト教の教えに触れる機会がなかっただけで、キリスト教の教えを拒絶したわけでもなければ、無神論者でもありませんでした。故意・過失に関わらず、神との関係性を築いてなかっただけで問答無用に地獄行きというのは私にはとても理不尽に思えます。神というのは理不尽な存在なのでしょうか?

    • true-ark より:

      はじめまして、当サイトの記事をお読みいただきありがとうございます。そして、記事の数々が、ft様の目を開かせるものとなれて幸いです。
      お答えの件は、多くの方が感じる疑問です。
      以下の記事はすでにお読みになりましたか?
      http://true-ark.com/bible-faq-hell-suffering-reason/
      もしまだでしたら、一度目を通してみて下さい。

      他に加える点としてですが、
      (1)死後の救いは神でないとわからない。
      誰についても言えることですが、死の直前の状態は、神でないとわかりません。ですので、ある人が死んだ後どこへ行ったかについて、誰も断定できなことは言えません。もっともある程度断定できるようなケースも存在しますが、基本的には、それを断定することについて、私たちは控えめな態度を取るべきだと思います。

      (2)地上でキリストを信じる機会が無かった場合
      イエス・キリストの福音について聞くことなく死んだ人は、どうなるのか?という問題があります。これは、過去に亡くなった多くの日本人にとって、重要な質問です。実は、聖書はこのようなケースについては、あまり詳しく説明してはいませんが、次の聖句は、重要なヒントを与えています。
      「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20) 
      この聖句は、自然界を通した「一般啓示」について言及しています。つまり、自然界の事象は、創造主なる神の存在を全ての人に明らかにしており、聖書が無くても、人は神を信じることができる、ということです。それで、自然界を通した神の啓示に応答し、その応答にふさわしく生きたかどうかが、裁きの基準となると思います。おそらく、日本だけでなく、世界全体において、福音を聞かずに無くなっった人には、この原則が適用されると考えられます。

      祖父母様は、無神論者ではなかった、ということですが、何らかの形で、この啓示に応答されていた可能性はあるのではないでしょうか?
      ご紹介した記事と合わせて、熟考なさってみて下さいね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です