死後の世界を知ることはできるのか?死後体験、輪廻転生 VS 永遠の裁き
死後の世界を知ることはできるのか?
人は誰でも、生まれてから必ず死を迎えます。また、全ての人が寿命を全うできるわけでなく、ある日突然に何らかの事故で死を迎える場合もあります。死はいつでも起こり得るものであり、それは私たちに人間にとって、あまりにも身近で重要な問題だと言えます。
死後の世界を知るためには、複数の方法がありますが、この議論の大前提としてまず抑えておきたい点は、現代の科学的な知識によってでは、その全貌を解明することは全く不可能だということです。なぜなら、物理世界の多くの謎が科学によって解明されてきているとはいえ、霊的次元の現象については未だ知り得ないことが多過ぎるからです。したがって、死後の世界を知り得るには、次の二つの方法に頼らざるを得ません。
- 死後の世界の体験者の証言を聞く。
- 色々な宗教の教えを聞く。
目次
1:死後の世界の体験者の証言
死後の世界の体験者の証言として参考となるのは、(1)臨死体験者の証言、(2)神の導きで死後の世界を訪問したクリスチャンの証言、の二つです。
臨死体験者の報告
臨死体験は、昨今、世界中で専門的な研究対象となっている分野で、世界規模の研究団体も存在します。私自身、数多くの臨死体験報告に目を通してきましたが、それらの証言は、確かに死後の世界の実在を証明していると断言できます。一方、全ての臨死体験者は、死後の世界を「垣間見た」後、実際に生還しているため、彼らの証言の多くは、死後の世界の全貌を証明するものとはなりません。この点には注意が必要です。
▶参考記事:臨死体験~死後の世界の証明か?
神の導きで死後の世界を訪問したクリスチャンの証言
この体験は、世界中の宗教の中でも、キリスト教徒だけが有する特殊な体験だと言えます。この種の体験は、聖書的な根拠もあり、新約聖書の第二コリント12章では、パウロがこの体験について短く証言をしています。
「1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。 2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。 4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」(第二コリント12:1-4)
現代でも、死後の世界訪問はユニークな体験ではありますが、世界規模で見ると、多くのクリスチャンから、同じような体験報告がなされているのは興味深い事実です。
この種の体験が、一般の臨死体験と異なる点は、その体験の質にあると言えます。神が、特定のクリスチャンを選んで死後の世界を体験させる目的は、体験者が、天国と地獄という現実の世界と、そこに居る人々の祝福や苦しみをしっかりと確認し、地上の世界で生きる人々に明確な警告を発するためです。そのため、天国・地獄訪問の多くの証言では、(1)天国と地獄が実在すること、(2)それぞれの世界がどんな場所であるか、(3)どんな人がそこへ行くのか?(4)そこでどんな報いを受けるのか、という点が、明確に語られます。
色々な宗教の教えを聞く
多くの宗教は、人の死後の状態について、何らかの教えを持っているものですが、宗教ごとに教えている内容が異なるので、どれが正しいのかについては、私たちの側が見分けなくてはなりません。
宗教の教えを見分ける際に、第一段階として考慮すべき点は、その宗教が(1)哲学的宗教か、(2)啓示宗教か、の違いです。そして、啓示宗教において次の段階で考慮すべき点は、(1)真の神からの啓示か、(2)悪魔・悪霊からの啓示か、の違いです。以下に順を追って說明をしていきます。
哲学系宗教と啓示宗教
ここでの哲学系宗教の定義とは、人間の知識・知恵・努力によって真理を見出そうとする宗教を指します。しかし、死後の世界の全貌を知ろうとする場合、この方法では壁にぶつかります。なぜなら、死後の世界のような霊的次元は、人間の知識や知恵によってでは、全く知り得ない領域だからです。
そのため哲学系宗教の体系に沿って、いくら死後の世界を論じようとしても、それは推測の延長にしかならないのです。
一方、啓示宗教とは、人間の努力によってではなく、特定の「霊」による上からの啓示によって明らかにされた真理を教える宗教です。実は、世界中にはこのような体系の宗教はとても多く、三大一神教のユダヤ・キリスト・イスラム教は全て啓示宗教であり、日本でも幸福の科学や天理教などをはじめとする多くの新興宗教は、この部類に入ります。
啓示宗教の場合、その情報源は人知を越えた「霊者」であるため、人間が知り得ない霊の次元や死後の世界の事柄も、霊による啓示で知ることができるようになります。ですから、死後の世界を知る目的で宗教の教えに耳を傾けるなら、啓示宗教を選択するべきなのです。
神の啓示と悪魔の啓示―輪廻転生と永遠の裁き
聖書を読んだことが無い人にとっては馴染みがないかもしれませんが、この世界には、悪魔・悪霊と呼ばれる霊者が実在します。彼らの働きの目的は終始、人間を欺き、滅ぼすことにあります。そこで、霊的な次元において、真の神と、悪魔が実在する以上、啓示宗教の教えには、真実の情報と人を欺く偽りの情報が混在することとなります。
啓示宗教の死後の世界観については、色々な種類がありますが、日本人にとって比較する価値のある代表的な二つの異なる教えとして、(1)輪廻転生、(2)永遠の裁き(天国・地獄)、があります。
輪廻転生:仏教やヒンズー教
輪廻転生とは、死んであの世に還った霊魂(魂)が、この世に何度も生まれ変わってくることであり、大抵の場合、現世の状態は、前世での行いによって決まると教えられます。輪廻転生を支持する宗教は多く、ヒンドゥー教や仏教などインド哲学・東洋思想などにおいて顕著であり、他にも古代のエジプトやギリシャ(オルペウス教、ピタゴラス教団、プラトン)など世界の各地に見られます。
また現代に世界中で広く浸透しているスピリチュアリズムの教えにおいても、輪廻転生が一貫して指示されています。※スピリチュアリズムとは、シルバーバーチなどをはじめとする霊媒を通した啓示宗教を指します。
永遠の裁きー天国・地獄:聖書
永遠の裁きとは、聖書の教えであり、全ての人間は一度限りの地上生涯を終えた後、神の前で生前の行いに対する裁きが言い渡され、天国(神の国)か、地獄かに永遠に分けられる、というものです。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)
一度限りの地上生涯で永遠の運命が分かれる、とするこの聖書の明確な教えは、輪廻転生とは全く相容れないものです。ですから、以上の点を踏まえれば、論理的な結論として、どちらかの霊の啓示が、偽りであることがわかります。
そして、霊の世界に、本物の神と悪魔が存在するのであれば、片方が神からの真実で、もう一方が悪魔による偽りであることも明らかとなります。
では次に、私たち人間の側で、霊による啓示の真実性をどのように見分けることができるのか、この点を考えていきたいと思います。
神の啓示と悪魔の啓示を見分ける方法
霊の啓示だからといって、安易に信じることは危険です。私はこの状況を「霊的オレオレ詐欺」と呼んでいます。なぜなら、悪魔は「オレが真理だ」と言いながら人間に語りかけて欺くからです。霊の側からすれば、「オレが真理だ」と自称することはいくらでもできますから、確かめもしないで、安易に信じることは危険なのです。
オレオレ詐欺の電話がかかってきた場合、電話口の相手を見極める有効な方法は「当人でないと決して知らないような情報を聞いてみる」ということになります。「おれが息子だ」と自称してきたら、たとえば「幼いときに好きだった食べ物は?」と聞いてみるのです。
実はこの方法は、霊的オレオレ詐欺を見破る際にも大変有効です。私たちは、「真の神にしかわからない情報をその霊が持っているかどうか」を確かめるべきなのです。そうでないと、証拠も無いのに盲信するだけに終わってしまいます。
幸いなことに、聖書の神は、その情報を持っています。それは人類史にことごとく成就してきた聖書預言の数々であり、またキリストの復活の奇跡です。遠い将来の出来事を見通し、語った言葉を必ず果たせるのは、全能の力を持つ神でなければ不可能です。
では、真理を自称する他の宗教の「霊たち」は、このテストをクリアしているでしょうか?輪廻転生を支持する霊たちは、自分たちの教えが真の神からのものであり、真実であることを、何をもって証明しているのでしょうか?実際のところ、それらの啓示が神からのものであることを証明する証拠というのは存在しないのです。是非、ご自身の目で、それらの証拠について調べてみて下さい。
結論:死後の世界はこうなっている
天国と地獄は実在する
聖書の教えによれば、この世界は、私たちが住んでいる物理的世界と、神や悪魔が住んでいる霊的世界とに分かれています。霊的世界は、神と天使たちが住んでいる「天(天国)」と、神から断絶された悪魔や悪霊の領域である「地獄」とに分かれます。
そして、全ての人間の霊魂は、地上での生涯を終えた後に霊的世界へ向かい、地上での生き方に応じて、天国か地獄のどちらかへ、永遠に分けられます。つまり、一度地獄へ堕ちた魂がその後天国へ行くことはなく、その逆もありません。また、輪廻して地上へ戻ることもありません。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。・・そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 ・・「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。 7 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。 8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示録21:1-8)
誰が救われて天国へ行くのか
イエス・キリストへの信仰が、天国へ通ずる唯一の道であり、また原則です。神は、それ以外の救いの方法を人に用意しておられないのです。この点は、聖書でも繰返し明らかにされていますが、死後の世界への訪問を許された多くのクリスチャンたちも、しきりに証言し警告している真実です。
「イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)
キリストの十字架と復活によって示された神の無限の愛に対して、どのように応答するのかが、全ての人の永遠の運命を分ける鍵となっているのです。救われるチャンスは、今地上で生きている間だけ、私たちに与えられています。是非、そのチャンスを逃すことなく、永遠の命を受け取って下さい。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
コメントに書かれている事はよく理解はできます。
聖書関連にまつわる記事は沢山読んだし
聖書も読んでいますから。
やはり神が愛ならこの世で生きた時のみ行いで
簡単に天国か地獄に振り分けるのは
これが愛の神のやり方だとすれば残酷すぎて、
キリスト教の神は愛です。
とは言えなくなります。
なので、ハデスにもこの世での生き様によって段階がある事
、そこで福音を聞かされて悔い改めれば永遠の命に入れるが
理想です。
この世で生きているうちには聖書とは無縁の人も普通に多いし
聖書の話を聞いた事はあるけど、時間に追いまくられて
真剣に学んだ事もない人は沢山だと思うから。
艱難時代はとても怖いです。
地震で突然揺れるだけでも恐怖だと言うのに……
これらは艱難前期と末期という二つの節がどのサイトを見ても
あるし、どちらがいいのかよく分かりません。
全てのクリスチャンが無条件に艱難前に携挙されるのは
合点がゆかない面があるためです。
偽りのクリスチャンもいるからですね……
紹介の記事を改めて読んでみます。
こちらのサイトの記事も、久保氏の記事も全部を見ましたし
今も繰り返しどちらのサイトの記事も読み返しています。
キリスト教関連の記事のサイトを読むのは楽しいです。
天国にも、地獄にも、段階はあります。
地上での行いに応じて、報いや裁きの大きさが異なってきます。
神の愛と、死後の世界の捉え方については、ハワード・ストーム氏の書いた「臨死」などもお勧めです。
おそらく、色々な疑問が腑に落ちると思います。
艱難時代は大変な時代ですが、クリスチャンは恐れる必要はありません。
「守られる」とはっきり書いてありますので(黙示録3章)
なお、携挙とは、全てのクリスチャンが無条件に、、というよりは、
真のクリスチャンだけが天に挙げられます。
上辺のクリスチャンが、挙げられる保証はありません。
是非、引き続き学びを深め、真理を探求して行かれて下さいね。
神の祝福がありますように。
ハデスにもこの世での生き様に応じて何段階かある事は知っています。
携挙の時には、キリスト教の異端も、マリア像などキリストを差し置いて崇拝している偶像礼拝のカトリックも、プロテスタントも全てのクリスチャンは艱難前に携挙されるという節は受け入れたくない気持ちもあります。
艱難後の苦しみを経た後なら全てのクリスチャンが携挙されるという事ならまあ理解はできます。
その理由は、個人的な事なので感情論ですが、カトリックの信者と言いながら、皇室への非難など容赦なく行っている人のブログがあり、それを読んでいるとクリスチャンの慈愛の微塵もないなと思ってしまうから、そのようなクリスチャンはそれなりにハデスで裁かれた後にしてもらいたいです。
まあ、皇族はエフライムの王族の子孫だという節もあり、ホセア書にエフライムの不義に対する神の怒りがあるし、皇室は善なのか裁きの対象になるのか分からない面はありますが。
私も携挙されるか分からないと常々思います。
良いと思える事が無力さなどから出来ていないからです。
良い事は何一つなかった60年の人生でも、それは結局は自分で選ぶ能力が授けられているのに誤ったのは自分の責任でもあると思います。
恵まれない家庭環境であったので人生を踏み外したという言い分も神が受け入れてくれたら救われるかもしれないけど複雑です。
◆携挙では、真のクリスチャンだけが挙げられます。ですから、マリアを崇拝しているクリスチャンや、キリスト教全体に敵対している異端的グループは挙げられないと考えられます。
◆人が救われるかどうかは、当人がユダヤ人であるとか、皇室であるとかは、1mも関係がありません。もっともユダヤ人の場合は、将来のある時点で、民族的な回心があることが聖書で預言されていますが、ユダヤ人だから自動的に救われる、という教えでは全くありません。
◆三島さんがイエスに対する正しい信仰があるのなら、救われるはずです。ただ、文章をお読みしていて、霊的な癒やしや調整が必要であると強く感じます。
ハワード氏の「臨死」を一度読まれることをお勧めしたいと思います。またドクターアイコ博士の著作もお勧めできると思います。
どうぞ、一度お読みになってみて下さいね。
私は世間でよく「モルモン」と称される、「末日聖徒イエス・キリスト教会」の信者です。
私達の教会は世間の正統派とされるキリスト教から異端とされる事もよくあります。
三島さんの文を読ませて頂いて、少しだけ私達の教会の事をお伝えしたくなり、これを書かせて頂きます。
末日聖徒イエス・キリスト教会の教えでは、死後の裁きはキリストを信仰する者もそうでない者も、
その人生での行いと思いとで計られます。
信者だから即救いを受けられ、信者ではないから即地獄ではなく。
教えや信仰は、それによってより善い行いをする者となりキリストのような人格に少しでも近づけるためのガイドライン、導きのものであり、
いかに気持ちではキリストを信じていても普段からの行いや欲求がそれに伴ってなければよい報いは得られないし、
逆に信者ではなくとも自身の良心に従って生きてきたなら、それに応じた報いがあると信じています。
また私達の教えでは天国にも段階があり、不信者やあまり正しくなかった人達は、地獄ではなくの天国に分類される中の下の方の場所に行くと信じています。
そして最後の裁きの前にいる場所でもかつてキリストがされたように伝道が行われていて、悔い改めの機会があると信じています(1ペテロ3:18−20、4:6)。
そして私達の教会ではあの世で悔い改めた人の為に死者のバプテスマも行われています(1コリント5:29)。
もしご興味がありましたら当教会の者に聞いてみて下さい。
これが三島さんのお目に触れる事を願っています。
日本東京伝道本部
FAX: 03-5996-1349
TEL: 03-3952-6802
追伸
上の私のコメントに関する事が下のURLに書かています。
「聖書的セカンドチャンス論とは? 死後の改心の機会はあるのか」
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/seiseco.htm
私はこちらのサイトの常連の読者であり、ブックマークにも入れています。
これからも記事を楽しみにしています。
人の死後は天国と地獄しかないとは思えません。
その理由ですが、神は愛だというのに、人がこの世で生きていた時の行いだけで天国か地獄かに簡単に分けられては神は愛とは言えないと思います。
聖書には天国と地獄の他にも、よみの国の事も書かれていますがこれをどう考えるのでしょうか。
この世で生きている時に罪を犯す人の背景にあるものを神なら知るはずで、
よみの国に行って神の福音を聞かされてそこで悔い改める事ができれば
永遠の命を持つ事ができるとレムナントの記事を書かれている久保有政さんは主張しているし、私はこの人の考え方の方を信じたいです。
それから携挙についてですが、艱難前という節と艱難末期だという節があり、久保氏は艱難末期だと書いています。
この事についても聖書を読んでも判断できない異なる事が書かれていますので人が迷っても仕方ない面もあります。
コメントありがとうございます。
三島さんのお気持ちはよく理解できますし、私もそのように信じたい一人ではあります。
しかし、何を信じたいか、という前提で真理を理解しようとするなら、もしもその真理が自分の期待とは異なる場合、いつまでも聖書を読み間違えることになります。
ご指摘の点については、以下の二つの記事が参考となると思います。
http://true-ark.com/bible-faq-hell-suffering-reason/
http://gospel-jw.com/doctrine-hell/
天国と地獄、という表現はわかりやすいので使っていますが、正確な定義をする際は、かえって誤解を招きます。
「黄泉」と訳される原語の言葉は、ヘブル語で「シェオル」、ギリシャ語で「ハデス」です。
これらは、裁きの時までの一時的な場所です。
ハデスは、苦しみの場所と、慰めの場所にわかれます。
慰めの場所に行った魂は、キリストの復活以降、天に挙げられています。
苦しみのハデスへ行った魂は、千年王国語の白いみ座の裁きの時まで、そこに留まり、その最後の審判を受けた後、
火の池に投げ込まれ、そこに永遠に留まります。以下の図も参考になります。
http://true-ark.com/wp-content/uploads/2018/04/01c5ea1e57601d6e82ee87cf2ebf2b66.jpg
より詳しくは、ハーベストタイムの「聖書が教える死後の世界」のセミナーをご覧いただけると良いと思います。
◆携挙について
以下をご覧下さい。
http://true-ark.com/prophecy-rapture/
ただし、携挙の時期についてはあまり詳しく解説していないので、以下のハーベストタイムのコンテンツがお勧めです。
・再臨待望聖会2017年度―携挙の時期について
・2014年 『携挙・大患難時代・そしてユダヤ人の運命』
携挙の時期は、確かに難しい議論であることは理解できます。
加えて参考できるのは、現代のクリスチャンにイエスが与えた携挙に関する啓示の数々です。
幻などを通して、携挙を示されるクリスチャンが世界的に多くいますが、
一貫して、大艱難の直前で携挙が起こることが示されています。