なぜ聖書の神が常に正しいと言えるのか?


なぜ聖書の神が常に正しいと言えるのか?

聖書の神は、本当にどんな時でも正しいと言えるのか?この問題に対する批判や疑問は多岐に渡るが、よく議論されるテーマとしては、次のようなものがある。

  • なぜ神は人が地獄で永遠に苦しむことを許すのか?
  • イエスを信じなければ救われないというのは傲慢ではないか?
  • なぜ神は全能なのに犠牲を要求するのか?
  • なぜカナン征服の際、子供まで殺さなければならなかったのか?
  • サタンよりも神の方がたくさんの人を殺しているのはどうしてか?
  • なぜ神はこの世界に多大な苦しみが生じることを許してきたのか?

そして、これらの数々の疑問の答えを考える時に、共通して抑えておくべき非常に重要な点があるので、今回はそれを取り上げたい。

重要な前提:神の実在とイエス・キリスト

まず最初に、この疑問に答えるための重要な前提を確認する。それは(1)聖書の中で「創造者」「いと高き方」「全知全能」として啓示されている唯一の神が実在すること。(2)二千年前にユダヤで誕生し、十字架で死んだ後、三日後に復活して天に挙げられたイエス・キリストが、神の御子・救い主であること、以上の二点だ。

冒頭でリストアップした疑問を感じる人の中には、以上の二つの前提については、理解をしている人も多い。しかし、その前提が何を意味するのか?ということにおいては十分に理解ができていないために、数々の疑問を感じてしまうことがあるようだ。

また、この二つの前提を理解されていない方がこの記事を読む際は、この前提の根拠となる記事を当サイトで載せているので、合わせて読んでいただきたい。先にその根拠を要約すれば、「イエス・キリストという一人の人物に、救い主に関する旧約聖書の数多くの預言が成就した」という点にある。お勧めの記事は以下の通り。

イエス・キリストの復活の真実
イエス・キリストは聖書で預言されていた救い主(メシア)なのか?

キリストの到来が明らかにしたこと

イエスが証明したかったこと

かつて永遠の昔から天で父なる神と共に栄光を受けていたイエス・キリストは、聖書の預言通り、およそ二千年前に、ユダヤのベツレヘムで人として誕生した。イエスは罪の無い状態で生まれ、罪無く歩み、その生涯の終わりに十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死なれた。そして墓に葬られ、三日後に復活し、四十日の間に弟子たちに何度も現れ、彼らの見ている目の前で天に挙げられていった。これら全ての出来事は、聖書が昔から預言していた通りであった。

「さて、そこでイエスは言われた。『わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。』」(ルカ24:44)

では、イエスが地上に来た重要な目的とは何だったのだろうか?もちろん、その最大の目的は罪の身代わりとしての犠牲を捧げることであったが、その十字架の死や生涯全体を通して、イエスが明らかにしたかったこととは何だったのだろうか?―それは、私たち人間に対して「唯一の神」を啓示し、その栄光を表すことだった。

つまり、自身の語る言葉、その行いや歩み全体を通して、神がいかに愛情深く、正しいお方であるのかを証明するのが、イエスが到来した重要な目的だったのだ。(キリストの到来の本質的な目的は神の栄光を表すことであり、十字架による贖いは、その本質的な目的を達成するための最も重要な業だったと言える)

イエスの証言

「18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。 19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(ルカ18:18-19)

イエスはここで、神が「善いお方」であることをはっきりと示し、また神以外には「誰も」善い者はいない、とも語った。つまり「神は他のどんな存在も全く及ばないほど、完璧に正しいお方だ」、これこそが、イエスが明白にした真理だった。

「フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハネ14:8-10)

イエスは、自身が父と一つであり、自分を通して唯一の善い方を知ることができると語った。新約聖書のイエスの生涯を読む時、人は誰でもそこに愛と憐れみに満ちた崇高な人格を見るが、それはイエスを遣わした父なる神もまた同じような「善い方」であるという、私たちに対する重要な啓示なのだ。

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。」(ローマ1:17)

イエスの証言ではないが、イエスから直接的に多くの啓示を受け取ったパウロの証言の中で、本テーマに関連して特に重要なのがこの聖句だ。ここでパウロが言及した「福音」とは、「イエスが聖書の預言通りに罪のために死に復活したこと」を意味している。(第一コリント15章)つまり、キリストの十字架と復活は、神の愛・義・聖なる属性を確かに啓示するものだったのだ。

※なお、イエスが繰り返し言及した「唯一の神」が旧約聖書全体で登場する「唯一の神・ヤハウェ」を意味していることは言うまでもない。

イエスは誰よりも、「父なる神」に関する真実を知っている。そのイエスが、あらゆる栄光を捨てて地上に来て、十字架の死にまで耐えたのは、神の栄光を表し「神の義(正しさ)」を証明するためだった。したがって、もしもイエスを救い主として信じながら、聖書の神の義を批判するのであれば、私たちは神の子が命の犠牲を払ってまで証明した真実を覆すことになるのだ

しかし、それでもなお、聖書の神の考えや行動に対する疑問を持ち続けるということがあるかもしれない。その場合は、次の点も考えてみる必要がある。

神の考えは人の考えよりも高い

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8-9)

天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く」この神の言葉の意味を深く理解することはとても大切である。なぜなら、この一節の言葉が、神に対するあらゆる疑問に対して究極的な回答を与えるからだ。では、神の道や考えはどのように人よりも高いのか?

まず、今回のテーマとなっている「正しさ」に関する問題を抜きにして考えても、神と人との間には圧倒的な違いが存在し、それはまさに文字通り「天と地ほどの差」であり、神の方が遥かに高い「抽象度」を持っていることがわかる。

※「抽象度」とは、どれだけ広く高い視点や視野に立って物事を捉えているか?という度合いを表す言葉で、苫米地博士がその著書でよく用いている。多少聞き慣れない表現かもしれないが、本テーマの説明にピッタリの言葉なので、使わせていただく。

抽象度が高い人は、幅広い知識や視点で物事を捉えることができるため、抽象度が低い人よりも、あらゆる物事に対して、より正確で最善の結論を導き出すことができる。では、神と人との間には、具体的にどれほどの抽象度の差があるのだろうか?

時間的視点の違い

私たち人間の人生は、どれだけ長くても100年ほどであり、人生や世界を100年足らずの時間軸で捉えることしかできない。人類の歴史や世界の未来を見据えて、できるだけ広い視野に立って考えている人もたくさんいるが、過去の全てを知ることはできないし、未来に起きることを完璧に予測できるわけでもない。そして、死んだ後にどのような場所へ行くのか?ということもわからない。

ところが神は、永遠の昔から生きている存在であり、遠い昔からの全ての歴史や、遠い未来の出来事までを完全に見通すことができるので、僅かな年数しか地上で生きられない人間とは、その視点の高さがまるで異なってくる。

「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。」(黙示録4:8)

空間的・次元的視点の違い

私たちが生きているこの世界は、三次元空間だと言われている。この三次元空間とは、「幅」「奥行き」「高さ」の三通りの指標で捉えることのできる空間のことだ。しかしこの世の中には、三次元では捉えることのできない「より高次元の世界」(多次元、霊的次元とも表現できる)が実在し、そこは神や天使が住んでいる領域となっている。そして、霊の世界からは三次元世界が見えているが、三次元世界からは霊の世界は見えていない。

例えば、ヨブ記1~2章を読むと、そこでは霊の世界での神とサタンとの会話の内容が記録されているが、三次元世界で生きるヨブには、自分に降りかかる苦難がどのような理由によって引き起こされているのかがわからなかった。神を呪わなかったとはいえ、サタンが神に挑戦を仕掛けており、神がヨブの試みを限られた期間許していたことまでは、ヨブにはわからなかったのだ。

この事実は、置かれている次元の違いから、神や天使からは見えてはいても、三次元世界の人間からは見えていない情報が山のようにある、ということを意味する。例えば、私たちは地上で生きている間は死後の世界を見ることはできないが、神は死後の世界の真実を知り尽くしており、そこでの人の運命を踏まえた上で、地上で生きている人間に語りかけることができる。

一方多くの人間には、地上での人生しか見えていない。したがって、三次元空間の知識に制約された人間の考えと、全ての次元の空間を知り尽くしている神の考えとでは、その抽象度に天と地ほどの差があるのだ。

人の内面や行い

私たち人間は、人の表面を見ることはできても、内面を見ることはできないし、他の人の人生の全てを知り尽くすこともできない。だから、人間同士の問題が起きても、完全に公平な裁きをすることはできない。

しかし神は、一人一人の人間がその人生で行った全ての行いだけでなく、その裏にある心の動機も全て知り尽くしているので、どんな人間にもできない完全な視点で人を評価し、裁きを与えることができる。

「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」(黙示録2:23)

神の義を信じる

このような神と人との間の抽象度の差を考えれば、聖書に記録されているある物事を取り上げて「神は正しくない」と安易に批判することはナンセンスであることがわかる。聖書は、確かに歴史の真実を記録してはいるが、それぞれの出来事について、その背景事情を全て説明しているわけではない。また、十分な背景事情を知ることができたとしても、人は神の視点の高さで物事を捉えることはできない。

イエスは神が唯一の「善い方」であることを証言し、それはキリストの十字架と復活を通して公に証明された。たとえ聖書を読んで、神が正しくないと思えたとしても、その原因は人間側の抽象度の低さにあるのであって、実際には神は常に全てのことを知り尽くした上で、人間よりも高い視点に立ち、最善の方法で行動されてきたのだ。

最後に、私たちの永遠の救いのためには、「神の正しさ」を信じることが最も重要だと聖書は教えている。なぜなら、私たちは自分自身の行いで完全な正しさに達することはできないが、イエスを信じ「神の義」を信じることを通して、神から「正しい者」と認められると、聖書は教えているからだ。

「2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。3 聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。』とあります。・・・16 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。」(ローマ4:2-3、16)

 

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